住職挨拶

当山の公認、公式サイトをご覧いただきありがとうございます。

日蓮宗 宗教法人 妙蔵寺の住職といたしまして一言、ご挨拶を申し上げます。


まずはじめに当山の檀信徒ご一同、並びにこの度、拙僧の挨拶文を掲載して下さるお話を頂きました後援活動を頂いている公式サイト管理運営委員の方々に深く感謝を致します。日頃からこのような拙僧を持ち上げて頂いたりと皆様のお心遣いには至極恐縮いたし自らの職責の重圧を感じています。


仏教では、仏様たる教主お釈迦様にお仕えし、悟りを得て成仏するための教えを修行し、その教えを伝え弘めるための僧侶という存在と役割があります。

その教えとは、法華経すなわち『妙法蓮華経』です。
仏門の教えは、一切経の八万四千の法門といいまして数多くの教えがありますが、いずれも全てお釈迦様がお説きになられた教えです。しかしこれらの教えの中に、お釈迦様が唯一自ら最も重要だと仰せになられた教えが、この『妙法蓮華経』の法華経なのです。

このことは、大昔からどれが最重要の教えなのかという諸説論点によって議論が交わされ、その中には地位や名誉などを求める者の影響なども少なからずあったことですが、今の数多くある宗派などを生み出す結果となりました。しかし現代は文献研究をはじめ歴史を解析することができるだけの技術力、誰もが何でも調べられる時代の到来によって、やはりこの法華経がお釈迦様の教えの集大成であることを、少なくても他宗を含める僧侶の方々で学徳がある人は気づいているはずなのです。
ではただ法華経を読み信仰していれば良いのかと言えば、そうではありません。法華経の教えの信仰は元より、お題目「南無妙法蓮華経」を日々お唱えすることが法華経の功徳力を現前させる唯一の方法なのです。

鎌倉時代に日蓮大聖人が、法華経こそが教主釈尊(お釈迦様)の仏道の真髄であり、お題目「南無妙法蓮華経」をお唱えすべきであることを主張なされましたが、それまでの宗派に身を置く僧侶は、それまで得てきた面子や衣食住を守るために日蓮大聖人に迫害を加えてきました。

お釈迦様の真意たる法華経のお力こそが、我々衆生済度(衆生救済)を果たしてくださる唯一のお経典なのです。そして日蓮大聖人は、この法華経に身命をささげるという絶対信という姿勢を表す事を意味する「帰依」という言葉がありますが、この帰依と言う言葉と同じ意味に「南無」と言う言葉があり、この南無」を冠して「南無妙法蓮華経」とお唱えする事の実践を人々へお勧めになられました。

ご先祖様への読経などによる供養もすべてこの法華経に依るものでなければならない理由として、経典の持つ功徳のお力、「経力」がとても大事なことなのです。

それは死者への魂の鎮魂によるのみならず、むしろお釈迦様は、我々が現生に生きるための力を与えてくださるものとしてお説き頂いたものが「法華経」なのです。

仏道に身を置く僧侶にもさまざまいます。徳の深い者と浅い者。日蓮大聖人を迫害したような僧侶が現代にも実際に存在しますが、人の悪口や雑言を平然と口にする者。三毒とされる愚痴を吐く者。慈悲の心もなく他を責める者。妬み嫉妬深い者。我々僧侶は、読経やご回向(供養)ご葬儀時の引導文を述べるという皆様の大事な儀式作法を預かる責任ある存在として、最も大切なことは、ただ上手に読経やご回向の文言を述べれば良いと言う事ではありません。

読経や回向、引導文が読めれば、誰もが僧侶であるという事でもなく、常日頃から我々僧侶が愚行三毒の因たる言動行動を慎み善行を行い、そうしたことで培う内なる精神によって、功徳が表に顕れる姿勢こそが、これら回向文や引導文、あるいは祈祷、お祓い、祈願文などの文言に込められた言霊の力、妙力を大いに引きだし発揮させることができるのです。それは同時に檀信徒の方々のご家庭に幸か不幸かが顕れる眼に見えない大きな根本因となる影響力さえあるのです。
 例えば日蓮宗で広く行われている修法師の加持祈祷も、九字の切り方と文言を唱えることができれば誰もが修法師になれるのかと言えば、そうではありません。修行の回数だけを重ねて顕妙抄と呼ばれる祈祷指南書たる伝書を読み漁れば、誰でも勝れた祈祷の修法ができるのかと言えば、見かけはそのように見えたとしても、檀信徒に期待をもちかけられ祈祷依頼を受けたとしても、中身が伴わなければそれも空しく良い結果は顕れないのです。どんなに身に水を被っても、自らの心の毒を流し浄めようとしなければ水行もただの子供の水遊びに終わります。

日蓮大聖人様は、『観心本尊抄』というお書きものの中に、三十三字段と呼ばれる箇所には、日蓮大聖人の三力(三力とは、経力=法力、佛力、信力を言う)に基づく考え方が示されています。即ち、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」とあるように、釈尊の因行果徳のすべてが収められている妙法蓮華経の五字七字の法力、衆生の解脱を願って法華経を説き妙法蓮華経の五字七字を示された本佛釈尊(お釈迦様の佛としての本質)の佛力、それを信じ受持唱題する衆生(人々)の信力、ここに三者冥合による受持譲与という妙行成就がなされると説かれた通りであるのです。
 祈祷修法の妙行の力を顕す(顕妙)には、三力冥合、三力和合の力が必要であるというように、祈祷やお祓い、読経やご回向やご葬儀の引導も全くこれと同じなのです。いくら祈祷、お祓い、読経、ご回向やご葬儀の引導の表面的な作法や文言を習ったとしても、修法でいう型を習っただけで、その力を発する方法を修得したとは言えないのです。この事を世間の他の僧侶にも伝えながら、日頃の朝の勤行をはじめとする、自らの純粋修行(金品を貰い受けないで行う修行の事で日蓮宗大荒行堂とは違います。)を積み、菩薩の行い、佛様の心を我が心としようとすることを怠らないで励んでいきたいと思います。

当山、妙蔵寺は、至心にお題目をお唱えいただく全国の方々のための寺院であってもらいたいと運営を心掛けています。どうぞ宜しくお願いをいたします。

     稽首合掌礼拝  妙 蔵 寺 太 田 日 瓏