開目抄

※文中(定)とは、『昭和定本 日蓮大聖人御遺文』全四巻を指し、漢数字は項を示す。

一篇。文永九年(一二七二)二月撰述、五一歳。真蹟身延久遠寺曽存、日乾真蹟対照本京都本満寺蔵。

〔成立〕
本書の成立については聖人自ら次の如く記されている。「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄在土の国にいたりて、返年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢずらむ。此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみともみるべし」(『開目抄』定五九〇頁)と述べられ、また「去年の十一月より勘へたる開目抄と申す文二巻造りたり。頸切らるヽならば日蓮が不思議とどめんと思ひて勘へたり。此文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(『種種御振舞御書』定九七五頁)とも述べられ、更に「法門の事、先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ。其の書能々御覧有るべし」(『富木殿御返事』定六一九頁)と述べられている。即ち文永八年九月一二日の竜口法難の虎口を脱れた聖人は、翌一〇月佐渡流罪となり、雪は降り積もって消えることなく、昼は日の光もささない塚原三昧堂の配所に住することとなった。そして佐渡到着後間もなく本書執筆を開始され、翌九年二月完成し、佐渡を訪れた鎌倉の四条金吾の使者に託して、有縁の弟子信徒へ送られたのである。聖人が本書を撰述された動機由来については、種種の事情と理由を教えることが出来るが、今は次の三点に要約して解説する。
 一に教団の危機打開のため。聖人三二歳の立教開宗以来の法華経弘通は迫害受難の連続であった。「既に二十余年が間此法門を申すに、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず。大事の難四度なり。二度はしばらくをく、王難すでに二度にをよぶ。今度はすでに我が身命に及ぶ。其上弟子といひ、檀那といひ、わづかの聴聞に俗人なんど来て重科に行はる。謀反なんどの者のごとし」(定五五七頁)と聖人自ら述べられている。ことに文永八年九月一二日の竜口法難から佐渡流罪にかけては「弟子等檀那等の中に臆病のもの、本体或はをち、或は退転の心」(定七五二頁)あって退転者が続出し、「千が九百九十九人は堕ちて候」(定八六九頁)という状況であり、日蓮教団は幕府禁断の宗教となり、正に崩壊の危機に瀕した。かかる迫害受難の数々は法華経の予言するところであって、聖人自身にあっては法華経色読の歓喜法悦の心境にあったが、弟子檀那の中には疑惑を懐き動揺する者も多かった。この時期の聖人に対する外部からの批判と内部の弟子たちの疑惑は、第一に聖人が人々の機根を考えずに、専ら法華経受持を勧奨したこと、第二に法華経勧持品に基づく聖人の言動は深位の菩薩の行うことで、その言動は同じ法華経安楽行品の教説に背いていること、第三に聖人の説くところは教相門ばかりで観心門についての理論的提示がないこと、という批判である(『寺泊御書』定五一四頁)。また弟子たちも、何故法華経の行者である聖人に諸天善神の守護がなく、かえって迫害受難にあうのか、更には聖人の弘経の方軌たる折伏逆化は正しい方軌であるのか、との疑惑を懐いていた。こうした教団潰滅の危機を打開するには、「我弟子等がをもわく、我が師は法華経を弘通し給ふとてひろまらざる上、大難の来れるは、真言は国をほろばす・念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊との給ふゆへなり」(定一八四五頁)という弟子たちの疑惑を払拭し、外部からの批判に答える必要があった。そこで受難の法華経的意義を明かして、法華経行者の受難の滅罪の関係を験証し、迫害惹起の原因たる折伏弘通の時代的必然性を明示し、聖人が日本に対し懐き続けてきた抱負を述べて法華経弘通者としての使命感を披瀝し、もって日蓮教団の信仰の危機を根本より一掃し、不動の信念の確立を策したのが本書である。
 二に聖人自身の開迹顕本のため。立教開宗以来、松葉谷・伊東・東条・竜口・佐渡と連続する法難は、仏滅後の弘経者の受難を予言した勧持品二十行の偈文を色読体現したことを意味する。この二十行の偈文こそ、末法の法華経の行者たる資格を決定する最も重要な権証であった。それを色読し了った聖人は、本書中に「日蓮なくば此一偈の未来記は妄語となりぬ」「但日蓮一人これをよめり」「日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」と仏の未来記を実現した自覚を表明している。そして仏の予言を体現した聖人こそが正しく末法の法華経の行者であることを文証・理証・現証によって明らかにし、末法における主師親三徳兼備の導師として三大誓願を立て、自ら本化上行の応現なることを開顕せんとして本書は撰述されたのである。即ち聖人の理論と実践への内外からの批判と懐疑という危機的状況の中で、翌文永一〇年の『観心本尊抄』における法開顕に先立って、聖人の言動こそが末法の正導師、法華経の行者なることを宣言されたのが本書である。
 三に後世への記念、形見として。本書に「返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば(略)かたみともみるべし」とあるように、後世の門下檀越に対する記念として形見として、聖人の主義主張を留め置かんとの意をもって述作されたのである。即ち佐渡配流となった聖人は、酷寒の佐渡の自然環境と謗法者による人為的危険との危機的状況を「今年今月、万が一も身命を脱れ難なきなり」(『顕仏未来記』定七四二頁)と述べ、また「佐渡の国につかはされしかば、彼の国へ趣く者は死は多く生は希なり」(『法蓮鈔』定九五三頁)と述べているように、死を覚悟された。そして迫り来る死の危機と直面した環境の中で「一期の大事」「日蓮が不思議」を「万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん」という内的要求から述作されたのが本書である。

〔内容〕
本書題号の「開目」の二字の解釈は、古来より多くの先師によって試みられているが、要約すれば『報恩抄』に「日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」(定一二四八頁)とあると同じく、開目とは盲目を開く意味である。その盲目に人に対する盲目と、法に対する盲目との二種があり、習学すべき真実の仏法が何であるかを知らず、尊敬すべき正導師が誰であるかに盲目である一切衆生に対し、この盲目を開除して法華一乗の信智の目を開かしめるのである。即ち真実の法とは法華経寿量品を中心とする本門の世界であり、真実の導師とは本化上行の応現日蓮聖人であることを知らしめるための述作であるから、『開目抄』と名づけられたのである。ただし人・法の二つには傍正があり、本書中に「我身法華経の行者にあらざるか。此疑は此書の肝心」とあるように、聖人が法華経の行者であるか否かを決するところに述作の意図があるから、主とするところは人にあるのである。ゆえに『観心本尊抄』を「法開顕」の書とするのに対し、本書は「人開顕」の書といわれる。
 次に本書の大意であるが、『開目抄』は教団存亡の危機的状況の下で、聖人が魂を込めて一期の大事を開示された御書であるから、一抄の構成を把握することの困難な御書であり、古来より先師が種々に科段分けを試みている。今はそれらを要約して内容を概説する。本書一篇を叙述の形式から序分・正宗分・流通分の三段に分ければ、冒頭の「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂主・師・親これなり」から「悪鬼便を得て国すでに破れなんとす」(定五四二頁)までが序分である。そして「此に予愚見をもて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに」から「我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返てみちびけかし」(定六〇五頁)までが正宗分で、以下を流通分とする。
 序分では、末法の正導師を開顕するに先立って、末法の衆生が信ずべき正法が示される。即ち五重相対によって教法の権実を批判して、「一念三千の法門は但法華経本門寿量品の文の底にしづめたり」(定五三九頁)と、末法における真正の教法を定められた。聖人は単に仏教のみでなく世間の学問である儒教・外道をも含めて検討し、この結論に達したのである。聖人は、この法門は元来は天台宗のものであったが、真言宗・華厳宗等もこれを盗用して所有するに至り、天台宗は七宗だけでなく禅宗・浄土宗にも劣ることとなって、法華の正法は失せはて、守護の善神が日本を去ったので、日本国は今や滅亡の危機に瀕している、といわれるのである。
 正宗分は四項目に分けられる。一に迹門の二乗作仏と本門の久遠実成との二箇の大事をあげて、法華経が難信難解・随自意真実の教えであることを論じ、この二つの法門が衆生成仏の原理である一念三千の精華であることが説かれる。ここで本門の一念三千が本因本果の法門として解り易く説明される(定五五二頁)。次いで末法に法華経を弘むべき使命を有する本化上行菩薩の再誕たる法華経の行者は誰か、の疑問が解明される。聖人は自らの開宗以来の発願・受難・弘経・懐疑を述べて、法華経の難信難解が滅後末法の今現実に起きていることを論じ、三に二乗・諸天・菩薩・諸仏は法華経によって成仏得道したのであるから、法華経の行者を守護すべき責任があることを論証する。四に宝塔品・勧持品の文によって事実と経証の一致を示し、三類の強敵、法華経の行者がそれぞれ誰に当るかを論ずる。即ち「抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるゝ。誰の僧か刀杖を加へらるゝ。誰の僧をか法華経のゆへに公家武家に奏する。誰の僧か数数見擯出と度々ながさるゝ。日蓮より外に日本国に取出さんとするに人なし」「法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし」と述べて、聖人こそが正しく末法の依師たる法華経の行者であると高らかに宣言されたのである。そして「善に付け悪につけ法華経をすつる、地獄の業なるべし」という決断が示され、「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ」との三大誓願が発表されたのである。更に聖人は法華経の行者の受難について、現在の受難は前世の謗法の招くところであり、法華経弘通によって大難に遭い、その功徳によって宿罪を速やかに消滅し成仏の期を早めるという、聖人特有の罪意識と深刻な滅罪観が示されている。
 最後に流通分では、摂受、折伏のいずれが末法相応の弘経法であるかを論ずる。これは聖人が法華経の行者であるか否かという疑問に対する答えでもあるから、これ正宗分に編入し「夫釈尊は娑婆に入り」(定六〇九頁)以下を流通分と見る人もいるが、今は取らない。三問答よりなり、無智悪人の国では安楽行品の如く摂受を行じ、邪智謗法の者多き国では常不軽品の如く折伏を行ずべきであるとする。そして末法の日本国は謗法充満の国であるから、折伏弘教こそが時機相応の法であると決し、この時機に山林に交わって観念観法し、密閑で三密の行を修するのは末法時機不相応の法であると論ずる。終りに聖人は、折伏を行じて末代の病子に灸をすえる「日本国の諸人にした(親)しき父母」であると自身を位置づけている。
 かように本抄は、久遠実成の釈尊から末法の弘経を付嘱された本化上行菩薩は誰であるかを明らかにすることを一篇の主題としつつ、聖人教学を総合的体系的に概説していることと、護惜建立、死身弘法の法華経の行者の使命が強調されていることにおいて、即ち聖人の思想信仰が最も鮮明に示されている点では諸御書中の第一である。そして一気呵成の文脈の間に見られる溢れんばかりの充実した気魄は、かの『観心本尊抄』の沈静・清澄な筆致とは極めて対照的である。なお日蓮正宗創価学会の主張する日蓮本仏論は『開目抄』によれば成立する余地の全くない虚言であることを付言しておきたい。《山川智応『開目抄講和』、清水龍山・中谷良英『開目抄講義』(日蓮聖人遺文全集講義第九巻上下)、石川海典『開目抄講義』(『日蓮聖人御遺文講義』第二巻)、茂田井教亨『開目抄講讃』上下》(小松邦彰)

2016年03月30日