宗祖 日蓮大聖人


上画像は、山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗 総本山 身延山 久遠寺所蔵の水鏡のお祖師様 当時60歳のお姿


1222~82) 〔誕生と修学〕聖人は貞応元年(1222)2月16日、安房国(千葉県)長峡郡東条郷片海小湊の漁夫の子として生れた。2月16日の誕生日について聖人は自らはこの日をしるされてはいないが『本門宗要抄』の下巻と、日興の高弟新6人の1人大石寺三世日道の著『御伝土代』にこれを記している。『本門宗要抄』は聖人に仮托して作られたものであるが大体聖人滅後50年ごろの成立と考えられており『御伝土代』の著者日道は弘安6年(1283)に生れ、日興入滅の8年後の暦応4年(1341)59歳で入寂している人である。『宗要抄』の下巻は聖人よりその生涯の事績が述べられているが恐らく聖人の直弟や、檀越などの間でよく知られている伝承を稟けたものと見られるし『御伝土代』も日道が師の日興はじめ聖人の直門の人々より見聞伝承したことを書きとめ整理したものであるから共に信用に価するものである。従って2月16日誕生のことは真を伝えていると見てよい。次に聖人の家系については古くより三国氏、藤原氏より出た貫名氏の出であるといい、遠江国に住していたが伊勢平氏にくみしていたため、あるいは所領の争いのためとかによって安房国に流されたと伝えているが、聖人はこれらについて何ら語られるところがない。ただ「日蓮は日本国東夷東条安房の国の海辺の施陀羅が子也」(『佐渡御勘気抄』定511頁)、とか「今生には貧窮下賎の者と生れ、施陀羅が家より出たり」(『佐渡御書』定614頁)といわれ、あるいは「東条郷片海の海人が子」(定1580頁)などと述べられている。施陀羅とは悪殺、屠者等と訳され、インドにおける四姓の階級のその下の屠殺者の種族という意味と、法華経など諸経典に守猟・漁猟等の悪律義の殺生を業として生活する者という意味がある。聖人は生家が漁夫の家であったから魚猟を表す言葉として旃陀羅の語を使われたのであろう。聖人の父母は安房から遠く離れた下総若宮の富木常忍の家と関係が深く、また小湊の近くに住む領家より特別の庇護をうけておられた事実(定1710・1135・869頁)といい、また『本門宗要抄』に「釣人権頭之子也」と当時の伝承をしるしているところを考え合せると鎌倉時代によく見られる権頭と呼ばれる有力漁民で、恐らく都からの流人、没落した地方豪族の子孫であったと思われ、前に述べた貫名氏、三国氏の説も聖人滅後130~40年ごろには伝えられているから、早くより種々の伝承があったものと思われる。聖人は幼少のころから学問を好み、12歳の時、近くの清澄寺にのぼり住僧道善房の下に投じ、蓮長と名づけられ修学されたが、間もなく仏法、世法について疑を生じ、これを解決するために清澄寺の本尊、虚空蔵菩薩に智慧を授け給えと祈り、満願の日、智慧の宝珠を賜わったことを感得し、爾来慧眼とみに開け、諸経、諸宗の奥旨を得、更に鎌倉・京・叡山・南都等に学び、この研鑽・攻学によって末法の人々を救い、この世界を仏国土たらしめるのは法華経以外に教えはないことを発見された。

〔立教開宗と鎌倉弘通〕かくて聖人は建長5年(1253)32歳の春、故山清澄寺に帰り、4月28日、旭森の山頂にたち太平洋の彼方に暁闇をやぶって差し昇る朝日に対し唱題数返、法界に向って法華経お題目による広宣流布の意を決しられた。この日、諸天の食時である午刻(12時)法味を言上し道善房の持仏堂において説法を行い、法華経の教え唱題一行を強調して諸宗の誤りを正し、特に念仏は無間に堕ちる法、禅は天魔の教であると痛烈な批判攻撃を行った。この説法は一山を驚動させ、またこの地の地頭東条景信は熱心な念仏者であったから激怒して聖人を殺害せんと謀った。聖人は師道善房の計らいにより難を避けて清澄を下り鎌倉に出て松葉谷に草庵を結び、法華一乗の旗を掲げ折伏逆化の宣伝を始められた。このころ名を日蓮と改められている。
 聖人の諸宗に対する批判・破折は古来より念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という四箇格言、即ち念仏宗は無間地獄に堕ちる教え、禅宗は天魔外道の法、真言宗は亡国の悪法、律宗は国賊であるという名言をふりかざして折伏されたと伝えるが、聖人の実際の行跡を見ると、折伏には順序階梯があり、初めに禅宗、念仏を破し、伊豆流罪をゆるされ鎌倉に帰った弘長3年(1263)以降に律宗、東寺流真言(東密)を破し、文永11年(1274)身延入山後におよんで天台真言(台密)を破折されている。所伝によれば、聖人は鎌倉でも人通りの多かった小町の辻に立ち諸宗を折伏されたが、忽ち人々の怨嫉をかい、杖木・瓦石の難をこうむったが、一方には多くの信者を獲得したのである。日昭はこの年に来投し、日朗が入門し、大の外護者となった富木五郎常忍、その縁故につらなる大田乗明、曽谷教信らもこのころ入信しこれよりのち漸次南条七郎、四条頼基、南部実長らが門下に入っている。

〔立正安国論の献進〕聖人が松葉谷に居住されてより間もなく建長8年(1256=改元康元)正嘉(1257)・正元(1259)と僅か3、4年の間に大風・洪水・大地震・火災・疫病・飢饉・大流星・凶荒と天災地変が続いて起り、牛馬巷に倒れ、横死する人々数を知らず国民は塗炭の苦しみにあえいだ。聖人はこの災厄の増大は日本国を守護すべき天照・八幡はじめ大小の神祇、並びに仏法守護の諸尊・諸天が守護の力を失い、あるいは天に昇ってこの国を顧ないからであるといわゆる「神天上法門」に照らして考えられたが、更に経説による文証によって確認し、その起るべき必然性、理証を究め、これを実証する歴史的現実、現証を求めんものと駿河岩本実相寺の一切経蔵に入られた。このころ日興が入門し聖人に給仕するようになっている。聖人は入蔵によって確認した所信をもって一書を製し、近年続発する天変地夭、飢饉疫病は禅宗、念仏宗の悪法、邪義の興盛により起る、これを止める方法は禅・念仏の謗法を禁断し法華正法に帰依するにある。もしこのままに放置せんか、自界叛逆(内乱)と他国侵逼(外寇)の難に遭い、国主短命にして堕獄するであろう、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乘の一善に帰せよ」と勧め、これを『立正安国論』と名づけ、文応元年(1260)7月16日、宿屋入道最信を取次ぎとして幕府の実権者・前執権北条時頼に献進した。しかし時頼は何の反応をも示さなかった。そこでつねづね聖人を憎んでいた念阿良忠、道阿道教らの高僧、幕府重臣、権女房(きりにようぼう)たちは聖人を殺害せんと謀り多数の暴徒と語らい、8月27日夜、暗夜にまぎれて松葉谷の草庵を襲い火を放ち焼き殺そうと計ったが、聖人は危機を逃れて難を下総の富木常忍のもとに避け、ここを中心に約一ヵ年の間遊化に従った。この難を「松葉谷法難」という。
〔伊豆流罪〕弘長元年(1261)春、聖人は下総の遊化を終え、再び鎌倉に入り松葉谷に庵室をかまえ倍旧の情熱をかたむけ折伏の毒鼓をならされたが、良忠等は直ちに自身の信者である幕閣重臣や権女房・後家尼御前に働きかけて、「生きのびているとは不都合である」という理不尽、不当の罪名によって聖人を捕え、同年5月12日、伊豆国伊東に流罪した。地頭伊東八郎左衛門は初め領民に対し聖人の世話をしたりかくまってはならぬと厳しく布告していたが、聖人は幸にも川奈の漁夫弥三郎夫妻の手あつい庇護をうけかくまわれたのである。このころ、地頭は病床に臥し、医薬、祈祷等百方手を尽したがはかばかしくない。たまたま聖人が川奈にかくまわれていることを知り病気平癒の祈願を請うてきた。聖人は法華経を信ずるならば祈願しようと誓約させて祈られたが、まもなく病悩は快癒したのである。地頭は喜びにたえず伊東の海中から網にかかって上ったという立像(りゆうぞう)の釈迦仏を献じた。この立像仏はこれより聖人生涯の随身仏として捧持されるようになるのであるが、聖人は伊東八郎左衛門の好意により川奈から伊東に移りその外護、供養をうけられるようになる。聖人はこの地において『四恩抄』『教機時国抄』の二書を著された。前書は房州天津の工藤左近将監吉隆に与えられたもので、今この身は法華経を弘め、それがため法華経に説かれている如くに杖木・瓦石の難に遭い、流罪となった。されば自分はいま行・住・坐・臥つねに法華経を読み行ずる身であり、かほどの法華経の持経者は末代に希有の者であると喜び(定237頁)、次の書は仏法を弘めるには教・機・時・国そして教法の流布する前後の次第、即ち五義を知らねばならぬ、而してこれに従って法華経を弘めんとすれば必ず三類の強敵があると経に示されている、この三類の敵人をあらわさねば法華経の行者でない、これを顕すのが法華経の行者である(定245頁)。『四恩抄』は自身を末代にありがたき持経者であるといって如説に色読した資格をもって従来の一般的持経者たちと区別されたが、本書では経説を色読し、五義を究めて末法弘法のため如説に修行するものとして特に「法華経の行者」と自称されるのである。弘長三年(1263)2月、時頼は聖人の流罪が不当であることを知り赦免したので聖人は鎌倉に帰られた。時頼に対しては聖人は大きな期待をかけられていたが、この年弘長3年11月、僅か37歳をもって没した。

〔東条法難〕このころ忍性良観は鎌倉に入り北条重時の帰依をうけて極楽寺に住し、律宗の復興に努めていた。聖人は久し振りに房州小湊へ帰り、父の墓に詣で母を見舞わんものと文永元年(1264)9月のころ帰省された。聖人に深い恨みをいだいていた地頭の東条景信はその帰国を知り聖人を殺害せんと機をうかがっていたが、11月11日聖人が天津の工藤吉隆のもとに赴かれることを探り、東条郷の松原大路に待伏せ討ち取らんとした。聖人を護衛する弟子、信者は必死に防戦したがかなわずして次々に討たれる。聖人も頭に疵を負うて既に危うかったが、工藤吉隆とその一党がかけつけて聖人を守り、景信は落馬し東条勢は勢を失って追い払われた。かくして聖人は九死一生の難をまぬがれたが、吉隆は重傷を負って斃れた。聖人はこの大難を如説修行の金文にあて、日本国の持経者はいまだこの経文にあい給わぬが今日蓮唯一人これを身に読んだ「されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(『南条兵衛七郎殿御書』定327頁)と公称された。聖人の末法の法華経の行者たる自覚は持経者より法華経の行者へ、そして「日本第一の法華経の行者」へと深められて行くのである。

〔蒙古の来牒〕文永5年(1268)正月蒙古王フビライの国書が太宰府に到来、閏正月18日鎌倉に報ぜられ、幕府は2月7日これを朝廷に奏した。この蒙古来牒の報は全国民を不安の底に陥れたが、聖人は、この事は9ヵ年以前に既に『立正安国論』に申し述べておいた通りである。早く正法法華経を信じ凶悪を除いて外敵を伏するの方策をたてられんことを、と執権時宗はじめ幕閣要人、建長寺道隆、極楽寺良観等教界の耆宿・長老11ヵ所に申し入れ警告せられた。いわゆる『十一通御書』がこれである。しかし彼らは黙して動こうとしなかった。文永8年5月のころ大旱魃が起り、幕府は良観に命じて雨を祈らしめた。この時聖人は「良観上人の祈りによって雨が降れば日蓮は法華経をすてて上人の弟子となり二百五十戒を持とう、もし雨が降らねば上人はわが弟子となり給え」と申入れた。良観は祈雨には自信があったから喜んで承知をし弟子並びに諸宗の僧を請じて祈ったが雨は少しもなく大風・悪風のみ強まり面目を失遂した。良観と行動を共にした諸宗の長老、檀徒たちも非難と不評に耐えかねてますます聖人を憎悪し、幕閣を動かして聖人を断罪せしめんとした。即ち表向きは佐渡遠流とし、内実はその途の中途竜ロ刑場で頸を切らんとしたのである。

〔竜口法難〕9月12日、午後4時ごろ聖人は松葉谷草庵で捕縛され、鎌倉中を謀反人のように引回され、腰越竜口につき、頸座に引きすえられた。いざ頸切らんとした時、不思議な天変が起り、人々は恐怖に打ちひしがれて四方に逃げ去り、断罪することができず、結局、初めの罪名のごとく佐渡配流ということとなり、遠流の日まで依智にある佐渡の国主北条宣時の代官本間六郎左衛門重連の館に止まることとなった。これが竜口法難で、聖人はここに止まること1ヵ月、10月10日ここを出発し、越後国寺泊を経て同月28日佐渡に渡り、守護代本間重連の館のすぐうしろ塚原の地につき、荒れ果てた一間四面の三昧堂に入った。

〔佐渡配流〕この塚原は死人を葬る所で、この堂に入られた聖人は伊豆流罪の時感得した立像の釈尊をまつり食乏しく寒気・風雪に責められながらこの年を明かされた。このころ阿仏房と千日尼、それに国府入道夫妻が念仏を捨てて聖人に帰依し給仕するようになっている。年が明けて文永9年正月、佐渡の念仏、律僧等は聖人の来国を知り、念仏の怨敵日蓮を殺さんとして数百人の僧俗が集まったが、守護代の重連より僧侶ならば法門をもって勝負せよと申渡され、しからばとて越後・越中・信濃の方面によびかけ、聖人を論伏難破せんとした。正月16日数百人の諸宗の道俗が塚原の堂の前の広場に集まり聖人を論難せんとしたが忽ちに論破され、このため一国中に聖人の名が喧伝され彼らを切歯せしめた。「塚原問答」がこれである。こうした中で聖人は『開目抄』を著し、自身が法華如説色読の行者であり末法の大導師たる本化の菩薩上行の霊格者であることを明かされた。古来本書を「人開顕の書」という。またこの2月、北条氏一門の中で謀叛が露見し一族の重鎮や関係者が多く殺された。「二月騒動」といわれる内乱がこれで、聖人の予言された自界叛逆難が新しく実証されたのである。この年四月、聖人は石田郷一谷の土豪一谷入道の邸に移された。このころ聖人の身辺には鎌倉より渡島した弟子、信者たちが7、8人も常住するようになり塚原時代よりは待遇がよくなったようである。こうした中で聖人は「当身の大事」たる本法を明かした『観心本尊抄』を著された。古来「法開顕の書」といわれている。本書著述ののち約2ヵ月余、文永10年7月8日、これに説示された法門によって大曼荼羅を図顕し本尊と定められた。この曼荼羅は「佐渡始顕本尊」といわれ、これよりのち多くの弟子檀那に本尊が授与され、現存するもの120余に及んでいる。この年文永10年の末ごろから翌年にかけて幕府要人の間では聖人の言動、予言の的中と対蒙古の政策を考慮し赦免すべきであると考える人々があり、執権時宗も赦免に積極的で「科のないことも明らかとなり、申したことも事実となったから相模守殿(時宗)1人の計らいで赦免」(定1716頁)されることとなり、11年2月14日、時宗は流罪を免じ鎌倉によびかえした。

〔身延入山〕鎌倉に帰った聖人は幕府の呼出をうけ四月八日幕閣要人と対面した。この時の主たる話題は蒙古来襲の月日とその対策であった。聖人は「来冠は本年中にあろう、これにつけても念仏、禅宗中にも真言宗の帰依を止められるよう。もしまた真言師に祈祷を仰せつけられるならば、先例の如く日本は亡国となるであろう」と憚かるところなく直言された。聖人はこの時の直諌と『立正安国論』の献進と竜口法難前後の諌暁をもって「三度の諌め」「三度の高名」といわれている。幕府はなおも聖人の諌言を用いようとしなかったから、これ以上の諌言は無益である。「三度諌めて用いざれば国を去れ」という古の賢人の警しめにまかせ聖人は5月12日鎌倉を去って身延に入られた。身延山は甲斐国飯野御牧の波木井郷にあり、領主は南部実長で、実長は聖人を迎え請じた。これより9ヵ年の山中の生活が始まる。
 この年10月5日、果して蒙古軍はわが国を襲い対馬・壱岐の二島、筑前・肥前の各地に大きな損害を与えたが、同月20日夜の大暴風雨のため艦船の大半が沈没、残存兵力は辛じて本国に引揚げた。この年の末、聖人は『聖人知三世事』を著し、聖人とは未萠を知り、三世を知る人をいうが、自分は法華経の行者として如説に経を読み仏語の真実なることを伝えて実証した。これをもって思うに自分は「一閻浮提第一の聖人」(定843頁)であると言明された。既に地涌の菩薩上行の自覚に至った聖人は、上行の霊格を具有し、かつ末法に妙法を弘通するこの肉身をもって、儒教、外道、仏教の歴史的聖人たちと並べて優劣を論じ、これらに超絶した聖人であることを宣言されたのである。また建治元年(文永12年改元)6月『撰時抄』を著し、自身が閻浮第一の智人、大人、聖人にして末法の大導師であることを述べ、建治2年(1276)3月遷化された旧師道善房のため『報恩抄』を著し、恩を報ずることが人間の最大の行為であることを述べ、自分は諸宗の誤謬を破し末法救世の大法たる三大秘法を顕説することができたが、これらの功徳はすべて師の御房に集まるであろうと述べられている。聖人の盛んな宣伝活動により多くの弟子檀那の帰依、追随者が増加したが同時に一方では他宗徒の執拗な迫害、抑圧が加えられた。竜口法難の時には鎌倉の信徒教団に壊滅的弾圧・打撃が加えられ、聖人佐渡配流中も佐渡の信徒に迫害が加えられた。また池上兄弟、四条金吾に対する圧迫や、駿河熱原で起った「熱原法難」等があったが、信者たちはよく聖人の指導・勧誡のもとに不動の信念力をもやし、これらの迫害を乗越えたのであった。

〔弘安の役〕建治3年12月晦日、聖人は下痢を病まれた。聖人の病気はこれより一進一退の経過をたどり、翌弘安元年(1278)の末には少し快方に向われたが、弘安4年正月にまた再発、食欲不振と衰病に年をすごされたのであった。この年5月蒙古は高麗軍を合せて再び来寇した。6月7日、両軍は攻防よくつくしたが閏7月1日夜台風が来襲し元の艦船の沈没、破壊するもの数を知らず、10万7000余の死者を出して敗退した。このころ、この大風は思円(叡尊)の祈祷の効験であるという噂が流されているということを富木常忍が身延に報じてきた。聖人は真言の祈祷が成就すべき理のないことを説き、いつもの秋の台風に敵船が沈没したのを大将軍を生捕ったなどというはおこがましい。勝ったというならば蒙古王の頸でもとったか、と問えと返報されている。この書状は『富木入道殿御返事』また『承久書』といわれ、門下が聖人の口述をうけて書いたものでこれに聖人が花押を押されている真撰の遺文である。この書によってあるいは日蓮はつねづね日本が亡国となろうと予言していたのが案に相違して蒙古が敗退したので失望して空威張をしているのだと評する者がある。ところで叡尊の祈祷で成功したというのは周囲の者の宣伝で、叡尊の祈祷と台風とは一向に時日の合わぬ荒唐無稽の捏造の噂であった。このことは山川智応博士の『日蓮聖人』の中で詳細に論じてある如くである。また蒙古王の頸でもとったのかと反問せよと教えられたのも、成就もせぬ祈祷を誇大宣伝する者への言葉である。さて弘経の方軌には四悉檀の四法があるが、謗法を責め、亡国を警めたのは対治悉檀の方法によるもので、第一義悉檀にたてば、まさしく正法広布の時を期せられている日本国が亡国となるはずはないのは明らかな事である。この事は門下に常時説き示されていたにちがいなく、蒙古敗退ののち門下がこれによって動揺したことも退転したこともないことによって知られよう。この年の11月には十間四面、また庇(二層の庇屋根)の大堂、それに住坊、厩等付属建造物を具えた身延山久遠寺が落成した。聖人はこのころ病も忘れられたかのようであったが、冬も深まり寒気も強くなるにつれて食欲も殆どないような状態になられ、明けて弘安五年の年もはかばかしくない有様であった。

〔身延出山と入滅〕弘安5年秋に入ると人々は温暖の地で湯治せられることをすすめたので、聖人は南部実長の三男弥三郎実氏の所領常陸国隠井におもむかれることとなった。この常陸の湯を下野の塩原や那須、また磐城のさばく(三迫)の湯などにあてる説があるが妥当でない。かくして9月8日身延をたち18日武蔵国千束郷池上宗仲の館に入られた(定1924頁)のであるが、臨終間近いと覚られた聖人はここを入寂の地と定め、同月25日参集した人々に『立正安国論』を講じ、翌月10月8日、本弟子6人を選び、滅後の法灯と定められた。即ち弁阿闍梨日昭、大国阿闍梨日朗、白蓮阿闍梨日興(につこう)、佐渡阿闍梨日向(にこう)、伊予阿闍梨日頂、蓮華阿闍梨日持で、後世これを六老僧と呼んだ。また枕頭に経一丸(のちの日像)を呼んで京都開教を委嘱し、門下読経のうち辰ノ時(8時)に寂然として遷化された。61歳であった。遺骨は遺言によって身延におくられ、翌弘安六年正月23日、百ヵ日に当り諸弟子は身延に集まり、本弟子六人を中心に12名の人々を加えて月次輪番の制を定め、久遠寺を守ることとなった。しかし当時の鎌倉を中心とする社会情勢は極めて不安定であったため、諸師の身延登山は不可能となった。よって日興は実長と図って弘安八年の末ごろより身延に常住し、このころ登山してきた日向と共に身延山を運営することとなった。しかし間もなく日興は日向・実長と不和になり、3年後の正応元年(1288)末、身延を下り、富士に赴むいて門家を張り、日昭、日朗らもそれぞれ有縁の地に教域を拡げ、日像は聖人滅後13年、京都に入り大きな化跡をのこして関西法華宗教団の根拠地となった。

(宮崎英修)


2015年10月31日