Q.日蓮宗のお坊さんで「呪殺」と言う旗を立ててデモ活動を行なっている僧侶の方がいますが・・・

Q:日蓮宗のお坊さんで「呪殺」と言う旗を立ててデモ活動を行なっている僧侶の方がいますが、仏門に身を置く方がそのような事をしても良いのですか?
デモで行進や居座りのような事をされる行為は、迷惑行為になると思うのですが、
そう言う活動を行なっている人達に注意をすると、必ず「届出はしているので合法だ」と言われます。妙蔵寺のご住職様は、どのようにお考えになりますでしょうか?
また、ご住職様はデモ活動などに参加される僧侶のお方ですか?

 



A:私がどのように考えているのかという事のお問いかけですので私の考えをお答えします。
日蓮宗の宗門からも、「呪殺祈祷僧団四十七士」に関する注意の呼びかけがあり、宗門の公式サイトではかの集団と日蓮宗は無関係である事の声明を公表しました。
彼らの中には確かに日蓮宗と同じ法衣をまとい、日蓮大聖人の書かれた御本尊の複写を掲げているようですが、お恥ずかしい事に日蓮宗に関わる僧侶の数人と、それだけではなく、日蓮宗や法華宗、日本山などの法華の流派に籍を置く者たちと僧侶以外の極めて少数の有志による人たちの集まりのようです。
活動はあくまでも個人の意思によるものですから、日蓮宗全体、宗門としての活動ではありませんのでくれぐれも誤解のないようご理解をお願い致します。
とは言え日蓮宗の宗章紋が入った袈裟を個人的な活動でまとうのも問題ありきと感じています。

ご指摘の「呪殺」と言う言葉は、それを見る方も一体なんの事かと考えるよりも、印象から悪い内容にしか受け取れない事は事実であると思います。日本語には熟語たる言葉があるように、文字から伝わる意味がありますから、「呪殺」という文字から「呪い殺す」と読む以外の事を連想できるものではありません。
彼らの言い分としては、1970年(昭和45年)に公害問題を引き起こした工場・企業の経営者を、密教の呪術によって地獄に連行すると宣言し、呪術の対象として活動を行った「呪殺祈祷僧団」に習い、原発関連企業主を対象に公害企業主呪殺祈祷僧団を再結成したようで、2015年(平成27年)8月27日に、経済産業省前の脱原発を唱える市民団体が設営する脱原発経産省前テントひろばに於いて、原発再稼動と安保法制の反対デモとして呪殺祈祷会(じゅさつきとうえ)「死者が裁く」をテーマに活動を行ったそうです。

これらを鑑みますと、「地獄に連行する」とか「死者が裁く」と言った行為、主張を儀式的に実施するような行為は、仏教徒まして僧侶たる者が行なって良いものでは決してありません。僧侶にも道に深い者と浅い者、教えに基づく覚りを得ている者と、そうでない者、道理を弁えている者とそうでない者が存在します。

日本は戦後、国民が民主政権を獲得し法治国家となりました。この国における社会のルール(規則)があるわけです。ですから原発の問題も他の社会問題も全て、国民選挙によって国税による国家予算の事を踏まえながら、舵取りがされているのです。原発問題に関する政策は、実際には国のインフラ整備の進行状況とのあり様にも深く関連していく問題です。これらの問題は国も解決しなくて良いとしているわけではないのですが、しかし今日、明日に早急に対処が仕切れる問題でない事は、火を見るよりも明らかといえます。

国家が法治国家ではなく封建的主義による国家で、国民の自由が一切認められない社会であり、国政に対して異を提唱した者は、問答無用で国家叛逆の罪に問われ、極刑、処刑などの重罰を強いられるような非人道的な国家社会であったとしたら、僧侶が命を張って大勢の国民の命を守るための抗議、デモを行うことは尊い行為でもあると考えます。
しかし現代日本では、憲法21条の表現の自由によって、デモ活動が認められているとはいえ、僧侶の行うべき行為ではないと考えます。
憲法で表現の自由という事を認められてはいますが、あくまでもその行為は自由であり、何か問題をテーマとして掲げ改革運動としてデモ活動や反対運動、抗議活動を行なったとしても何も変わりません。
それは日本の憲法と法律というものがそれぞれ別のものであるからです。国の動向をどのように舵取りするかと言うことは、法律によって国民の意思を託す議員を選出し、それらの役職を担った人々が様々な視野から国力を見極め、どうするかを定めるからです。
僧侶がデモを行うべきではないとする理由は、僧侶は学を深め、智慧、知識を修め、物事の道理、真理に明るい賢者、智者でなければなりません。
そうした道理を弁えた者が、本当に世の中に改革をもたらしたいとすれば、少なくても今の社会のルールに従って、同志を集結、組織結成、国民の一人一人に各地域規模で呼びかけて賛同者、同胞をより多く集め、政治活動を行い国会において政権を手に入れなければならないのです。現実は言うよりももっと難しいものです。ですから既に政治活動をしている国会議員方や国民の一人一人に対してより多くの賛同者を得る活動が必要なことなのです。
国民の賛同を得られず、単なるグループ的な小規模の集団とそれらを支持する一部の国民では国は動くようなものではありません。
しかし誰もが納得しうる良い政策であるのばらばそれなりの結果を得られるでしょう。もしそうならない時は、国民が求めていなかったと言う事で、それは国民の意思ではないという事なのです。

日本の社会ルールに沿った活動でない運動は、反社会運動そのものなのです。
私の目からすれば、子供が駄々をこねているようにしか見えません。
この様な活動は和合的とは言えず、破和合であるとしか言いようがありません。
「申請を出しているから合法だ」と言われるとの事ですが、先述したとおり僧侶たる者は物事の道理に明るくなければなりません。先見の明がなくてはならないのです。
申請を出せば、当然の事ながら憲法に認められているのでその許可は得られますが、その事により、国民の安全をはかるために警察官が出動員し、交通規制等が敷かれます。警察官が配備されるという事は、税金が使われるわけです。他に必要とされる場所へ配置されず、また交通規制も敷かれれば、その地域の国民、企業の勤務車両、物流にも影響が少なからずうけてしまいます。こうした行為は迷惑行為そのものと言えます。申請を出しデモ活動を合法と称して行っても、表現の自由というだけの事ですから、当然ながら何も変わりません。実に無駄な申請と、無駄な国税を費やし国民に迷惑な影響を与えてしまうと言う行為は、僧侶のとるべき行為では無いのです。

私には、デモ活動を行なっている僧侶は、偽善にただ良く見せようというパフォーマンスであったり、また自分がこの活動を行うことで僧侶としての生き方を実践してるのだと思い込んでしまう錯覚をおこしているようなものだと言う事に、ただ気がつかないお方達なのだと思っています。大きなものにいま自分は立ち向かっているのだと言う錯覚から幻の使命感や達成感を味わっているだけのことでしょう。
その活動を通して売名行為に転じている者すらいますから困ったものです。

いまデモ活動に参加している僧侶は、今日、明日に命を奪われるようなことがあるとすれば、誰もその活動をしなくなるでしょう。命を惜しまないほどの覚悟があっての活動とは到底思えないですし、その姿からはそこまでの強い意志が見えてきません。
それを証明する裏付けとして各地域にいるデモ集団に関係している僧侶の方を見ていると、例え自分が悪口を言われようが悪者になろうが、そんな事を顧みず物事の是非を正すような行いができる怖いもの知らずの勇気がある僧侶は誰もいません。
ですから真の抗議活動を志としてできる僧侶はいないに等しいのです。
もしその様なことは無いという僧侶の方がいたのであれば、いま世界には封建国家であるとか独裁国家のような国が実際に存在し、それらの国民は権力者に虐げられ苦しい生活を過ごしている国があると言う事は誰もが知るところでしょう。独裁者とも言える者の存在は、今後更に世界中の人々に不安と恐怖を与えていきます。その様な国に足を運んで頂きデモ活動を命をかけて行って頂くと良いと思います。


Q:ありがとうございました。恐ろしい僧侶もいるのですね。本当に人を呪い殺すことって可能なのでしょうか?
四十七士って何か時代劇か何かの映画みたいですね。
そうですよね。僧侶の方が手本となって社会のルールを守ってもらいたいと思いました。

ご住職様にご相談したいことがあったのでこれで安心しました。


A:「本当に人を呪い殺すことって可能なのでしょうか?」

はい。可能です。しかしそう言った事の依頼はお受けしません。

もし呪詛に掛かっているということでしたら、それを解いて差し上げる事、依頼人の方に合った解き方をお教えする事は可能です。

呪詛と言うものはとりわけ大きく2つあります。人が人にかける呪いと、自分で自分自身にかけてしまう呪いです。呪いとか、おまじないと言うと非科学的という方がいますが、実は呪詛という行為の方法と効果は実に科学的なのです。
申し訳ありませんが悪用されると危険ですのでここではお教えできません。

2015年09月01日