歴史/伽藍

  • 目 次

縁 起

日澄聖人が背負って来られた日法聖人御手彫り
尾張四高祖の日蓮大聖人ご尊像
開山以来、開運厄除け祖師として拝まれてきた
眼光の鋭さからは数々の法難に怯まない
大聖人の強い志と不屈不退転の精神が伝わってくる
当山の縁起由来にある法華堂(現在の祖師堂)に
奉安されていた。
日法聖人の御作となる由来から法衣被着の許可を賜り村民に代々護られてきたと今日に伝わる。



日澄聖人が礼拝を欠かさなかった日蓮大聖人ご尊像の胎内に納められていた日蓮大聖人直筆断簡
密閉されていた尊像の胎内にあった事で保存状態が非常に良いものであった。
文字は「添貲量之」(添テ之ヲ貲量ス)と読む。貲=宝の意
納められるに相応しい文字である事を伺える。日澄聖人の大聖人を偲ぶ思いが強く伝わってくる。
宗宝認定の砌、当山第31世代に表装を施した



日澄聖人ご尊像

 

当山開山日澄聖人僧都ハ日法聖人ノ作ニナル祖師ノ尊像ヲ負ヒテ当村ニ来リ 元亨四年八月六日(皇紀一九八四年)一宇ヲ建立法華堂ト称シ祖師御尊像ヲ奉安シ晩年此ノ堂ニテ各地遊化ナサレタル御足ヲ休メ心安ラカニ給仕勤行ナサレ化道成弁ヲ遂ゲル 日澄聖人示寂後法子日宗正慶元年(皇紀一九九二年)師ノ七回忌ニ際シ本堂及庫裡ヲ創建シ山寺號ヲ公称シテ具徳山妙蔵寺ト云フ應安六年(皇紀二〇三三年)日宗上人遷化自ヲ第二世開基トス 尓後六百有余年当國四高祖トシテ門下霊場ノ一所ナリ

※当山で保管されている140年以上も前の古文書の為、600余年とありますが、現在でさかのぼると683年(平成17年現在)になります

創建年は元亨4年(この年旧暦12月9日に正中に改元)1324年。寺伝によれば、全国各地を布教しながら旅をしていた九老僧日澄聖人(またの名を大乗坊日澄聖人)が、高齢のため旅が困難となり、地主の手厚い帰依を受け、地主屋敷の一棟(小川家)を寄進され、この地で余生を過ごす事を決し、自佛像として片時も傍を離さず、遷化の息を引き取るその日まで給仕礼拝を欠かさなかった日蓮大聖人像(日法聖人によって彫られた祖師像、四高祖の一躰であり胎内部に日蓮大聖人の四文字による直筆断簡が納められていた。現在、直筆断簡は別の箇所に厳重に保管している)を住いに奉安し法華堂と称して草庵としたのが始まりで、その後に直弟子の日宗が、遺言に従って日蓮大聖人の御霊が眠る身延山久遠寺の御廟に埋葬するため道中の搬送を考慮し師を荼毘にふした。日宗は身延から再び南外山村に帰りて地主と村民からの協力を受け、日法聖人お手彫りの祖師像、尾張四高祖のご尊像を末代後世に伝えるため、日澄聖人のご草庵場所に、師の七回忌に合わせ本堂と庫裡を創建したと伝承される。弟子の日宗は、地主の子供であったと伝えられています。

『東春日井郡誌』の書籍には、開基以来、約700年に渡り当山に古文書にて伝承されてきた由緒とは明らかに誤った記述がなされている。妙蔵寺は約700年の間、火難に一度も見舞われることなく現存する古文書、及び寺宝によって伝統を今日に伝えるが、『東春日井群誌』には、妙蔵寺の歴史の裏付けとなる寺宝と什物たる古文書に記された内容とは、大きく異なった内容で史実が書き替えられている。大正12年に、『東春日井郡誌』の出版が行われる際、当山の由緒資料の提出には、当山に伝承されてきた正確な資料文献と、提出書類との照合がされず、当時の住職による独断にて文中には伝承と異なった言葉が使われている。大正9年11月前後頃に妙蔵寺28世の代によって起きた出来事である事が、当時、28世本人の手によるものと明らかに思われる下書き書類も証拠として現存しており、その内容から明白な妙蔵寺由緒伝の改ざんが事実である事が判明している。


日蓮大聖人(32歳)千葉 清澄寺にて立教開宗 日澄聖人、時15歳
日蓮大聖人(時42歳)伊豆ご配流法難の折  日澄聖人、時25歳
日蓮大聖人(61歳)ご入滅 (西1282)       日澄聖人、時44歳
その後、44年に渡り法華経と日蓮大聖人の教えを布教なされ天寿88歳(満87歳)にて遷化なされる。鎌倉時代の当時、希なる長寿を全うされた事から、長生き不老長寿のご利益を頂けるお寺として、長寿日澄さまの寺と親しまられてきた。

※年齢は何れも数え年齢



【日澄聖人と妙蔵寺のものがたり】

各地を布教して歩かれた九老僧 日澄聖人は、御歳86歳(実際の年齢-逸話に関しては、後述の項を参照ください。)と高齢を迎えられ、布教の旅も困難を強いられていました。既に老体となっていたお体は弟子の献身的な支えがありましたが、古くから集落として歴史のある外山村の地主が、日澄聖人の教えに帰依入信し、当村へ迎引されました。地主屋敷の一棟の寄進があり、その建物を日澄聖人は法華堂(妙蔵寺)として草庵をむすばれ、晩年、安住の地と定められるのでした。地主屋敷(小川家)から近い距離にあり、手厚い帰依給仕を受けました。日澄聖人は、中老僧 日法聖人に託され、片時もおそばでお祀りし随身仏とされていた仏像、四高祖ご尊像の最後の日蓮大聖人像を奉安し、息を引取る最期までも法華経とお題目を奉げ礼拝給仕をなされ続け、その約2年後の8月1日に遷化(せんげ=僧が亡くなる事の意)されました。御歳88歳※1

日澄聖人の身の回りの世話をなされていた弟子、日宗らと法華経の教えに入信した村人の手によって遺骨搬送のために荼毘にふされて、日澄聖人の御遺言によって日蓮大聖人様の御魂がお棲みになられている身延山(現在 日蓮宗の総本山久遠寺がある地、御廟所の御側)に埋葬されました。晩年には南外山村の人々からも手厚い帰依もあり別れを惜しんだ人々の手によって村の墓所に供養塔が建立なされました。
日澄聖人が自ら遷化なされるまで片時も側から離れず、お給仕を奉げられた、日蓮大聖人のご尊像は、村の人々を後世まで、お釈迦様、法華経の信仰と日蓮大聖人の教えに導かれて救われるようにと、日澄聖人の随従なる精神を尊び、その日澄聖人の願いが絶える事の無い様、粗末な草庵では、何時の日にかその願いも空しく絶える事を恐れ、弟子、日宗は、この地に法華経の道場としての伽藍を整える為に一寺建立を発願します。そして、地主と大勢の人々の協力を得て資金を集め、師の日澄聖人、七回忌の年にその発願がようやく成就し本堂と庫裏が建立されました。
その後、間も無く尾張地方は激しい戦乱へと巻き込まれていく事になります。しかし、日宗の一寺建立の効あってか、激動の情勢のなかでも日蓮大聖人像をお祭りした妙蔵寺は、村の人々の手によって法燈と日澄聖人の随従給仕の精神が護られ、日法聖人の御作の日蓮大聖人ご尊像をお祭りしたお堂は地域の人々に法華堂から祖師堂と愛称されるようになり、現在、当山にある祖師堂は江戸中期、当山第二十一世日勤によって再建されたお堂ですが、その呼称は今もなお受け継がれており、日勤の子孫は、現在、妙蔵寺の檀徒として当山の護持にご尽力を頂いています。
日蓮大聖人の祥月命日の月でもある10月の月に執り行われる「御会式=おえしき」には、二代にさかのぼる当山三十世の代までは、檀徒や村の人々、万遍講をはじめ、檀徒以外の近隣の地域の大勢の人々までもが集まり、妙蔵寺の御会式に詣でて日蓮大聖人を偲び高座説教の高祖伝(クリ弁)を聴聞されていました。また妙蔵寺では参拝された大勢の人々に食事などを数多く振舞ったという記録が残されており、更には当時に授与した御札の木版が今も現存しています。お腹を空かした子供たちが学校を早く終えて妙蔵寺でご飯を食べさせてもらう事がとても楽しみだったという事を懐かしげに語られる方々も現在、ご健在です。
また、当山では地域の子供たちに書道教室として開放し、大勢の子供たちが賑やかに学び、子供の学術教育の活動にも取組んだ場所でもありました。

やがて妙蔵寺建立の後、約300年の後には、法華の信仰者によって南外山村の墓所に日澄聖人の供養塔と、給仕守所として、「お経を誦(※そらんずる)して妙法の功徳により常楽我浄の大涅槃楽」を、祈る為の小さな拝礼所が造られました。
※(誦 そらんずる=物を見ないで記憶だけで声を出して唱える事。 暗誦 あんしょう=誦経じゅきょう)現在の誦経山 妙楽寺がある場所です。

寺の什物に記された記録以外で、後世、村の人々の間で伝えられた伝承は、口伝えによって行われたため、伝言ゲームのように、その正確さが失われ、誤った言い伝えも次第に数が増えてしまったばかりか、大正12年に、東春日井郡誌の出版が行われる際、新しい郷土資料のもとになる取材や、由緒資料の提出に、当山に伝承されてきた正確な資料の提出が、何らかの事情によって充分になされず、文中には伝承と異なった言葉まで使われてしまいました。大正9年11月前後頃に当山28世の住職代になり、その世代によって起きた出来事であった事が過去帳と寺に残された資料によって明らかな事であり、先代、第31世、高木前常師は、寺歴研究にも熱心でありましたが、この事を酷く嘆いていました。

日澄聖人が背負ってこられた仏像とは、中老僧 日法聖人によって彫られた日蓮大聖人像の事を言いますが、法華に関わりのない人物などによって、あいまいな伝承がなされていくうちに八幡神社の御神体は日澄聖人が背負ってこられたという誤った言い伝えまでもがなされてしまいましたが、当山の伝承と村人の話が混合してしまった為にもたらされた事である事が近年、法華の信仰として関わる民衆での八幡大菩薩の信仰の歴史とともに明らかにされています。
又、当山では、眼病平癒の目薬、朝光水などで有名な、行学院日朝上人をお祀りしていますが、日澄聖人と読みの音が同じなので、周辺の村人には、九老僧の日澄聖人によって眼病平癒のご利益を頂けるという誤解も言い伝えられてしまいました。

日澄聖人は、この南外山の地にて荼毘に伏されて、遠地であるはるか身延山の御廟に埋葬されたため、当山には、その墓所がありません。この辺りの村の風習には、人が亡くなると、寺には埋葬されず村の墓所に埋葬されるのが最近までの慣わしとされていました。火葬が習慣となった近代から現代にかけて、寺の墓には、主に分骨を行い供養墓としての趣旨でその存在を位置づけられていました。
日澄聖人の廟墓は、身延山の日蓮大聖人の棲神がお住まいになられている御廟所の傍にあります。当山 妙蔵寺の少し東側にある「誦経山 妙楽寺」には供養塔が建てられたと伝わっていますが、近代の伊勢湾台風にて倒木した根先から日澄聖人の遺骨がでてきたと妙楽寺先代、松岡快潤師が現、妙蔵寺住職にも話しをした事がありましたが、妙蔵寺31世、高木前常師と南外山の住人の話によると、それを目撃した町民は誰もいなかった事と、日澄聖人ご在世当時は、土葬が主な風習の時代には、人を土に返すことを葬法の習わしとしていましたので、骨壺に入れて埋葬したと言う事は非常に疑わしいことです。また骨壺が出てくるほどの大木の倒木も同時に確認できなかった事を、妙蔵寺第31世高木前常師がこの事を明らかにしていました。倒木の下から日澄聖人のご遺骨が出てきたという話には非常に疑わしい点が多くその真相は定かではありません。尚、妙楽寺先代、松岡快潤師が真実伝を偽言したため、その代で2度も落雷によって寺が燃えた事が、天の裁きであったと高木前常師と篤信の村人が、妙蔵寺の現住職に話をされました。

日澄聖人が、当時、この村に来られた時に、地主の入信があって、地主屋敷の一棟を寄進され、その建物に、日蓮大聖人像をお祀りし、静かに余生を過ごす為の草庵をむすぶ事を決せられました。その当時の僧侶は、現代の僧侶のように死者の供養を行うがだけが法務ではなく、日蓮大聖人の法華経弘通の遺命により、多くの人々にお題目、法華経の教えを広める為の布教が中心でした。また、高齢老体の日澄聖人へは地主からの手厚い帰依がありましたので、地主の家屋から近い場所に法華堂の草庵をむすぶに到ったのです。
なぜ村の墓所に草庵をむすばなかったのかと言う疑問も出てくると思いますが、当時、お題目の信仰に入信する者は、たとえ信者であっても他宗や幕府の関係者などからの非難や弾圧が強かったために、不特定多数の人々が他の宗教に関わりなどを持っている墓所には、草庵をむすぶわけにはいきませんでした。また、この事は、後世、「孝道陰徳の師」とまで称えられた日澄聖人のご性格からは決してできなかった事です。(続)



次回更新時に【具徳山 妙蔵寺の山寺号の由来】について掲載します。

※1 年齢は何れも数え年齢


天寿126歳生きたと語られた日澄さまの不老長寿の御利益

庶民の生活が厳しい鎌倉時代の当時、日澄聖人が希なる長寿を全うされた事から、多くの人々から長生き不老長寿のご利益を頂けるお寺として、古来から地域住民からは、「長寿日澄(にっちょう)さまの寺」と呼ばれ続けた異名を持つ。日澄さまのご長寿は、宗門全国的にも有名で、情報伝達技術の乏しい時代には、120歳以上も生きたと逸話が語られるほどでありました。
江戸時代後期に編纂された『尾張名所図絵』に、具徳山妙蔵寺の項があり、「當寺は日澄上人の開基にして、文保年中の草創なり。この人は、長寿にして、応安六癸丑(みずのとうし)の年百二十六歳にて遷化あり。祖師堂の本尊は日法上人の作にして、當国四高祖の一所なり。」と記述を見る事ができます。実際に妙蔵寺の過去帳を確認すると、長寿で亡くなる檀家の人が多いことがわかりますが、これも偏に妙蔵寺勧請のご本尊へ対するご本人の尊いご信仰とご利益とも言えましょう。

研究結果では、鎌倉時代の平均寿命は、飢饉疫病が蔓延した頃では、24歳~35歳。それ以外の年代では、62歳と言われています。
妙蔵寺に保管されている過去帳には、日澄聖人が遷化された年齢が、数え年で88歳と明治年代に記載されている事が確認できます。鎌倉時代当時の年齢では、現在の100歳を超える年齢的感覚であった事でしょう。
なぜ126才という年齢が云われるようになったのかは不明です。どちらが正しいのかと言うその真相をめぐる検証はできませんが、常人では希なる天寿を生きたという事は確かなことであると考えられます。

孝道陰徳と称された日澄聖人の随身給仕の礼拝

日澄聖人が、遷化のその日まで随身給仕の精神で礼拝を欠かさなかった当山の日蓮大聖人ご尊像には、日蓮大聖人の直筆四文字の断簡「添貲量之 ー 添テ之ヲ貲量ス」(貲=宝の意)がご胎内に収蔵されており、日蓮大聖人ご入滅の後にも、大聖人の御魂をおそばに感じ孝道を尽くされるご生涯でありました。断簡は、昭和40年2月27日に日蓮宗宗宝審議会の登録認定を受けるに至ります。現在、日蓮大聖人の直筆断簡は、別の場所に厳重に保管されています。


【孝道とは】親を敬い仕える道。孝行の道。日澄聖人は、自らの命が尽きるその日まで日蓮大聖人への孝道を全うした。
【陰徳とは】人知れず善行をすること。世間に知られない良い行いの事を言う。

尾張四高祖(おわりしこうそ)

尾張四高祖」とは、中老僧 日法聖人※2によって一木四体に彫られた日蓮大聖人ご尊像を日澄聖人に託され、尾張の地においてお釈迦様、法華経、お題目の信仰と日蓮大聖人の教えを絶やすことなく、護り広めるべく導師の尊像を祭られた事に由来します。のちに、尾張を締める四高祖寺として信仰が確立され、「四高祖参り」という信仰も江戸期には全盛期を向かえましたが、昭和、戦後以降には次第と衰退しました。今でも、その信仰の名残を体験されたという方が健在し、寺の記録資料の他にも、記憶として伝えられています。 日法聖人の作になる日蓮大聖人ご尊像は、東京大田区に所在する大本山 池上 本門寺をはじめ関東地方、東海、関西地方、その他の地方にも奉られており、東海地方における一木四躰としての四高祖寺と呼ばれる寺院は、昔の伝承で言うと、当山を含めて「名古屋東区 本覚寺」「名古屋東区 照遠寺」「甚目寺町 妙勝寺」「小牧市 妙蔵寺」の四ヶ寺で伝えられていましたが、明治年間に、照遠寺の祖師像は、東京感応寺、京都本圀寺との一木三躰と新しい公表がされ、「江南市木賀 昭蓮寺」の現在の祖師像が、元、「日比津 定徳寺」に奉安されていた祖師像で、日法作の四高祖の一躰とも言われている。                                       

※2 日法(にっぽう)聖人
(1258~1341) 和泉阿闍梨日法と称した。中老僧で日蓮聖人に直参した入で、俗姓は徳永光長といい、幼少より聖人に隨身した熊王丸である。岡宮光長寺の山号、寺号は日法の俗姓を取って名づけたといわれている。日法の伝道地域は主に現在の静岡県東部と山梨県勝山から都留郡にと及んでいる。即ち甲州(山梨県)山梨部の真言宗金剛山胎蔵寺を改宗して休息山立正寺とし、また郡内勝山の真言寺を改めて妙本寺を建立した。文永年中(1264~74)には駿州(静岡県)岡宮におもむき、天台の寺の寺主空存を教化して、日春(空存)と共に徳永山光長寺を創建した。

また日法は世に彫刻日法といわれ、聖人尊像彫刻の名手で、その名を知られている。今、日蓮門下名刹に師の手に成る祖師像が多く存している。

日法は常に聖人のそば近くあって、特に『連々御聞書』(日法筆、聖人講義ノート)に見られる如く身延では直接聖人より教えられ、修行と学習にはげんだのである。聖人の終焉には多くの弟子や檀越と共にその最期をみまもり、翌14日、池上の東藪で遺骸は荼毘に付された。その時、日法は宰領を務め、灰中より日蓮聖人の舎利を感得して、自ら赤木の木で五輪塔を刻み塔中に収め、更に箱を造ってそれを収めた。凾裏に「本門日蓮大聖人御舎利 弘安5年10月13日 武州池上東藪」と自書、奉持して光長寺へ奉安した。聖人滅後の身延の墓所を直弟子たちが輪番を作り守った祖塔輪番にも他の弟子と共に加った。日法は聖人の代理として甲駿に派遣されたのであるが、その教線基盤をいっそう強力にするために子弟教育に大いに力を注いだ。光長寺三世、侍従阿闍梨日景を始め、延慶年中(1308~10)には兵部阿闍梨日巧、大輔阿闍梨日円、近江阿闍梨日乗、兵庫阿闍梨日光、三河阿闍梨日善、日学らの弟子は光長寺塔頭支院を建立した。また日乗は休息立正寺三世でもある。日妙は小立妙法寺三世となり、転阿闍梨日性は沼津本光寺、日授は同正見寺を建立した。ここに日法とその弟子は祖命の甲駿弘通をはたした。即ち寺を建立し、弟子、信者を作り教線を弘めて甲駿における法域を固めたのである。弘安2年(1279)には聖人より本尊一幅が授与される。日法の真蹟は本尊三幅の外『連々御聞書』『御法門御聞書』『後五百才合文』(写本)『下山抄』(写本)『山門申状』(写本)がある。門下初期の教団の中にあって甲駿地方の教線を拡張してその基盤を作った日法の功績は甚だ大なるものがある。暦応4年1月5日、83歳をもって遷化した。


御首題 ごしゅだい (ご朱印)

江戸時代に『尾張名所図絵 後編三』に、妙蔵寺が著書された名刹で、日澄聖人のご長寿の徳にあやかろうと言う事から、古来より大勢の方々がご参拝され御首題(ご朱印)を受けられ続けています。

※ご首題(ご朱印)をお受けになられる詳細は、一覧の「御首題・ご朱印」または、「ご参拝について」をご覧ください。



妙蔵寺近代の中興 第二十五世 中島日誠聖人

日誠聖人 お若き時の御肖像


 

嘉永4年(西暦1851年)12月5日、父、中島茂吉、母、中島なか、の子として平賀に生まれる(長野県南佐久郡にあった村。現在の佐久市南東部一帯と思われる)。文久2年6月8日、12歳の時、名古屋 圓頓寺第十七世、京都本山 立本寺七十二世、唯全院日賢聖人(70歳遷化)に師事、出家して名を寶順と改める。号を唯存院日誠聖人と言う。慶応2年(西暦1866年)15歳(現在で言う高校1年生の年齢)、京都 松ヶ崎壇林 本涌教寺(昔の本涌寺、今の涌泉寺。記載には、本涌教寺とある。)学林生として修行し、翌年4月28日、最初転、法華経授記品を法輪(17歳)。唯全院日賢聖人から才能を見込まれ、明治七年(西暦1874)十月十日、23歳の若さで当山の住職として入寺する。しかし、地域周辺の同門僧の不徳の輩※1から妬み嫌がらせを受けるも、日誠聖人は不屈不退転の正義を貫き、闇の徒、現れる時、徳の光輝が増す如く、日誠聖人の信仰の姿が輝き、世間の正義の衆人から共感を得て、この代に他地域の地主などが檀家として入信があり寺門を強く護持した。※1
今も昔もいつの時代にも精神面の進化ができない人種がいる事を痛感するが、それが仏門に身を置く者であると思うと、まさに末法そのものであり、法華経が釈尊の未来記、予言であると感得なされた高祖日蓮大聖人がお題目、法華経の教えが広まらなければ国が亡ぶと提唱されたお気持ちがよく解るものである。

当山には日誠聖人の師匠、日賢聖人御奉納の御賽銭箱があり、祖師堂に設置のものは特に大きなもので、木曽街道に位置する寺と言う立地から、大きな御賽銭箱が必要なほど連日多くの参拝者がいた。

また日誠聖人の代の、明治24年(西暦1891)10月28日、午前6時38分50秒(日誠聖人諸事録記載)濃尾大地震が発生し、当山の諸堂も大破損を受け妙蔵寺に入寺して17年間、諸堂の修繕の苦労も水泡に帰すとある。その後、大修繕に尽力し、京都 大本山 本圀寺 貫首 日轟聖人より大営繕復功の賞にご本尊を授与せられる。日誠聖人は、近代における具徳山 妙蔵寺の中興として祀られ、学門文芸に優れ、書の名人でもあり人柄人徳篤く、いま当山に現存する多くの仏具等は、日誠聖人の代に新調されたものが大半を占めている。当時の檀家に南外山をはじめ近隣地域の地主がおり、その者達の奇特な奉納をはじめ、その他、永代供養の布施として当山に寄贈された土地などを、農地として有するようになり、これらの収益の効を次第に受けたことによるものと見える。しかし嘆かわしい事に、昭和期の第二次世界大戦中、金属類回収令により、高価な大香炉、梵鐘、半鐘、燭台、などすべてを供出することとなった。さらに戦時中は、当山に日本軍の兵隊が、気象観測基地として庫裏に駐屯したために、あらゆる金属類が容赦なく失われた。下記にある戦前に撮影された祖師堂の写真には、堂内入口正面に大きな香炉があるが、金属類回収令で没収され二度と当山に戻ってくることはなかった。※2

そればかりか戦後、農地改革によって寺有の農地は全て失われ寺門衰退となる要因としての大打撃を被った。永代供養を志し奉納された施主達の気持ちをくみ取ると、問答無用にそれらの人々の意志を消し去るばかりか、政府が寺院に対して永代供養の詐欺行為を計ったものと言っても過言ではない。まさに愚かな政策行為に日誠聖人の嘆きが聞こえてくる思いである。
日誠聖人は、38年の間、法華経の布教と妙蔵寺の法燈興隆に心血を捧げられ、明治四十五年(西暦1912)六月三十日、六十二歳にて佛勅を果たし遷化される。

ここに特筆すべきことは、日誠聖人が日々、師匠への報恩回向を捧げるため、師匠の肖像を納める厨子を用意し、本堂にお祀りして師匠を偲ぶ日々を過ごされた。まさにその姿からは当山の開山である、九老僧 日澄聖人が終生、日蓮大聖人への礼拝を欠かさなかった孝道を彷彿させる誠の信仰の姿が伺えるものといえる。

※1 前世で謗法の罪により獄界で苦しむも、小さな善行を行った縁によって、今生において法華経に入信し罪障を消滅するために法華経の僧侶となり修行ができる機会を得て、釈尊と高祖の御前でその罪を懺悔し徳を積む事を誓うも、謗法の業が深く今生に於いても罪障の毒が身に表れる者を指す。そうした不徳の輩は、己の因縁を観る事ができず理解ができないため因縁の恐れを忘れ、哀れな最期を迎え死後は、無限地獄に堕ち苦しみ続けると言う。釈尊でも救えない業の深さ故であると言う。
 (参照文献  日誠聖人筆 諸事録記より参照し一部を記載)
※ 日誠聖人肉筆には、中島ともあり、中嶋とも記されている所があるが、どちらが正しいのかは不明。

※2
ここ数年前までは、妙蔵寺門前通りの地面に防衛庁と記された蓋が残されていたが、小牧市の区画整理に伴い埋設されていた通信用ケーブルの回収工事を自衛隊が行った。

 

上写真 中島日誠聖人が他寺院に出向き登高座なされ御説教時に使われていた御経巻  (100年以上が経過しているが、当山で丁重に保管している為、状態は良好であるが、紐の一部を当代に修復。裏表紙に日誠聖人直筆の銘あり)
経典は携行し易いように懐中要品ほどの大きさになっており、法華三部経のうち無量義経と乾と坤の二巻に法華経二十八品が印刷されている。経巻の蓋と底のそれぞれ両面には金箔が張られているが、高座のような高い位置から聴聞の大衆への頂経儀式のときに、お経箱の裏側が見えても神聖な儀式の体裁が乱れず美しく見えるようにするための工夫を凝らした装飾でもある。

 

日蓮宗 総本山 身延山 久遠寺 法主 第八十四世 深見日圓大僧正 御親修御足跡

当山には、身延山久遠寺第十一世 行学院日朝上人(明応9年6月25日遷化)が当山の伝統とともにお祀りされており、昭和24年4月19日に当山に於いて 行学院日朝上人第四百五十遠忌大法要を久遠寺 法主 第八十四世 深見日圓大僧正を導師に迎え厳修した。
この遠忌大法要の他にも、過去にさかのぼり行学院日朝上人の遠忌時に、身延山の住職を導師に迎え法要を厳修したという記録が残されています。

また妙蔵寺に奉安されている九老僧日澄聖人御背負い随身給仕を捧げられた彫刻日法上人お手彫りによる、日蓮大聖人ご尊像を身延山に出開帳が行われた際に、御胎内に納められていた日蓮大聖人直筆断簡(現在宗宝)を奉拝したと言う添え状を授かった経緯があります。

(上写真 旧 山門前にて 写真中央 法主 深見大僧正 中央右 当山30世 髙木友章上人)

(上写真 旧 本堂内にて 導師 身延山 法主 深 見 日 圓 大僧正)

身延山への出開帳を行った折り、日蓮大聖人の直筆断簡を披露した際に受けた書状
元治元年(西暦1864年)




過去の風景写真

上写真 旧本堂 第五世 慧靜院日禅上人代建立

上写真 祖師堂

開基当時、法華堂と称されるに至った経緯の名残として人々からは祖師堂と呼ばれる様になり、尾張名所図会には、江戸期には守護神堂として妙見大菩薩を勧請し外山法華の妙見信仰の礎を築いた。(第21世 深孝院日勤代 建立 記録によれば発願より五年にて成就したとある)
当時の祖師堂は東向きであったが、昭和52年に春日井八田に住む 故 植村 保 氏と、そのご長男である植村 秀和 氏(現 総代)の両者による特別奉納の尽力を頂き、深さ10mに及ぶコンクリート基礎工事と耐震補強の工事を行い、境内を広く有効に活用すべく南向きに引き工事を行う事ができた。

上写真 旧山門

当山の山門から南へ続く表参道を行くと木曽街道に繋がる道があったが、昭和期の区画整理時に換地され、山門前の東西に続く道と南北を行き来する市道が整備された。この写真からもわかるように、人の往来もある山門前で芋やその他の食物を道端で販売し生計をたてる村民もいたほどであった。


現在の境内ギャラリー(クリックで画像拡大)




 

 

伽 藍

  • 祖師堂 開基当時、法華堂と称されるに至った経緯の名残として人々からは祖師堂と呼ばれる様になり、尾張名所図会には、江戸期には守護神堂として妙見大菩薩を勧請し外山法華の妙見信仰の礎を築いた。(第21世 深孝院日勤代 建立記録によれば発願より五年にて成就したとある)当時の祖師堂は東向きであったが、昭和52年に春日井八田に住む 故 植村 保 氏と、そのご長男である植村 秀和 氏(現 総代)の両者による特別奉納の尽力を頂き、深さ10mに及ぶコンクリート基礎工事と耐震補強の工事を行い、境内を広く有効に活用すべく南向きに引き工事を行う事ができた。
  • 本 堂 小牧市内初の鉄筋コンクリート建築の本堂。木造建築の本堂よりも、年間の火災保険料をはじめ設備維持運営費が掛からず、現代の寺院運営の在り方として注目される。(昭和48年 第31世 體祥院日透代 再建)なお平成26年に外壁の大修繕が1ヶ月半をかけ行われた。(第32世 大聖蓮乗院日瓏代)
  • 三十番神堂 三十番神像 第十一世 潮音院日賢作 旧三十番神堂 宮大工 波田野藤吉 作と記されている。第十一世 潮音院日賢代現三十番神堂 (平成七年改修 第31世 日透代)現在は、年に二度(12月31日大晦日大祭と10月15日お会式)特別開帳がされる。
  • 山  門 (第31世 體祥院日透代 再建)
  • 庫裡客殿 (平成8年 第31世 體祥院日透代 再建)
  • 山 務 室
  • 水  屋
  • 法界萬霊塔(昭和57年 第31世 體祥院日透代 建立。平成19年6月19日 未明に降った豪雨により崩壊)
  • 安 穏 廟 世界初の石材にて木組み型構造による和式宮殿が妙蔵寺に建造された。(用途=永代納骨供養霊廟の事で名称を安穏廟と言う。この安穏廟は、夕暮れ時に空が美しく瑠璃色に染まる時節に合わせ、棟瓦の真上に一番星が輝く絶妙な位置に建立した。 平成27年 第32世 大聖蓮乗院日瓏代 建立)
  • 墓  地  (平成11年11月 第31世體祥院日透代 整備)現在墓地拡張工事予定中。
  • 水  洗  (昭和5年3月 第29世妙啓院日晃代 新調。平成27年5月 第32世 大聖蓮乗院日瓏代 移転改修整備)
  • 境内便所  (第31世 體祥院日透代 再建)

[上記妙蔵寺保管資料参照]

~ 主な縁起資料 ~
本化別頭佛祖統記 日澄上人傳
尾張名所図絵後編三
東春日井郡誌  
~ 当山什物資料 ~
当山常什物明細取調書(明治二十年八月調書)
当山 由緒歴代記
妙蔵寺大過去帳第一号
妙蔵寺大過去帳第二号

その他 寺宝及び宗宝
日蓮大聖人直筆 断簡一片
日法聖人作 日蓮大聖人御尊像
釈迦立像佛
欄間絵画
金泥板曼荼羅
三十番神
鬼子母神十羅刹女
眼病平癒行学院日朝聖人御尊像
香鉢(江戸中期頃)
その他