立正安國論


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  • 日蓮大聖人 御遺文 立正安国論 原文(書き下し文)
  • 立正安国論について


立正安国論 (クリックして表示)

旅客来(りよきやくきた)りて嘆《歎》いて曰(いわ)く、近年より近日(きんじつ)に至るまで、天変(てんぺん)・地夭(ちよう)・飢饉・疫癘(えきれい)、遍(あまね)く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る。牛馬瓜(ぎゆうばちまた)に斃(たお)れ、骸骨路(がいこつみち)に充(み)てり。死を招くの輩(ともがら)、すでに大半に超(こ)え、これを悲しまざるの族(やから)、あえて一人(いちにん)もなし。
しかる間、或(あるい)は「利剣即是(りけんそくぜ)」の文を専(もつぱ)らにして西土教主(さいどきようしゆ)の名を唱え、或は「衆病悉除(しゆびようしつじよ)」の願(がん)を恃(たの)みて東方如来(とうほうによらい)の経を誦(じゆ)し、或は「病即消滅(びようそくしようめつ)、不老不死(ふろうふし)」の詞(ことば)を仰ぎて法華真実(ほつけしんじつ)の妙文(みようもん)を崇(あが)め、或は「七難即滅(しちなんそくめつ)、七福即生(しちふくそくしよう)」の句を信じて百座百講(ひやくざひやくこう)の儀(ぎ)を調(ととの)え、有(あるい)は秘密真言(ひみつしんごん)の教(きよう)によりて五瓶(ごびよう)の水を灑(そそ)ぎ、有は坐禅入定(ざぜんにゆうじよう)の儀を全(まつと)うして空観(くうかん)の月を澄まし、もしくは七鬼神(しちきじん)の号(ごう)を書(しよ)して千門(せんもん)に押し、もしくは五大力(ごだいりき)の形を図して万戸(ばんこ)に懸(か)け、もしくは天神地祇(てんじんちぎ)を拝して四角四堺(しかくしかい)の祭祀(さいし)を企て、もしくは万民百姓(ばんみんひやくしよう)を哀れみて国主国宰(こくさい)の徳政(とくせい)を行う。
しかりといえども、ただ肝胆を摧(くだ)くのみにしていよいよ飢疫逼(きえきせま)る。乞客(こつかく)目に羽(あふ)れ死人眼(まなこ)に満てり。屍(かばね)を臥(ふ)して観(みもの)となし、尸(しかばね)を並べて橋となす。おもんみればそれ、二離璧(じりたま)を合わせ五緯珠(ごいたま)を連(つら)ぬ。三宝(さんぼう)世に在(いま)し百王(ひやくおう)いまだ窮(きわま)らざるに、この世早く衰え、その法何(なん)ぞ廃(すた)れたるや。これ何(いか)なる禍(わざわい)により、これ何(いか)なる誤りによるや。

主人曰(いわ)く、独りこの事を愁(うれ)えて胸臆(くおく)に憤幾(ふんぴ)す。客来(きた)りて共に嘆《歎》く。しばしば談話を致さん。それ出家して道に入(い)るは、法によつて仏を期(ご)するなり。しかるに今《今》、神術も協(かな)わず、仏威(ぶつい)も験(しるし)なし。具(つぶさ)に当世(とうせい)の体(てい)を駅(み)るに、愚(おろか)にして後生(ごしよう)の疑(うたが)いを発(おこ)す。しかればすなわち、円覆(えんぷ)を仰いで恨みを呑み、方載(ほうさい)に俯(ふ)して慮(おもんばか)りを深くす。つらつら微管(びかん)を傾け、いささか経文を披(ひら)きたるに、世(よ)皆正(しよう)に背き、人悉く悪《邪》に帰(き)す。故に、善神(ぜんじん)は国を捨てて相去り《去り》、聖人(せいじん)は所を辞(じ)して還らず。ここをもつて、魔来(まきた)り鬼(き)来り、災起り難起る《災難並び起る》。言わずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。


客(きやく)の曰(いわ)く、天下の災(わざわい)、国中(こくちゆう)の難、余独(われひと)り嘆《歎》くのみにあらず、衆(しゆ)皆悲しめり。今、蘭室(らんしつ)に入(い)りて、初めて芳詞(ほうし)を承(うけたまわ)るに、神聖(しんせい)去り辞し、災難並び起るとは、何(いず)れの経に出(い)でたるや。その証拠を聞かん。

主人の曰く、その文繁多(もんはんた)にして、その証弘博(しようこうはく)なり。
金光明経(こんこうみようきよう)に云(いわ)く、「その国土において、この経ありといえども、いまだかつて流布(るふ)せず。捨離(しやり)の心を生じて聴聞(ちようもん)せんことを楽(ねが)わず、また供養し、尊重(そんじゆう)し、讃歎(さんたん)せず。四部の衆(しゆ)、持経(じきよう)の人を見てまた尊重し、乃至(ないし)、供養すること能(あた)わず。遂に我等(われら)及び余(よ)の眷属(けんぞく)、無量の諸天をして、この甚深(じんじん)の妙法を聞くことを得ず、甘露(かんろ)の味(あじわい)に背き、正法(しようぼう)の流(ながれ)を失い、威光及以勢力(いこうおよびせいりき)あることなからしむ。悪趣を増長し、人天を損減し、生死(しようじ)の河に堕(お)ちて、、涅槃(ねはん)の路(みち)に乖(そむ)かん。世尊、我等四王並に諸の眷属及び薬叉(やしや)等、かくのごとき事を見て、その国土を捨てて擁護の心なけん。ただ我等のみこの王を捨棄(しやき)するにあらず、必ず無量の国土を守護する諸大善神あらんも、皆悉捨去(しやこ)《捨離(しやり)》せん。すでに捨離しおわりなば、その国まさに種種の災禍あつて、国位を喪失すべし。一切の人衆(にんしゆ)皆善心なく、ただ応縛(けいばく)、殺害(せつがい)、瞋諍(しんじよう)のみあり、互に相讒諂(あいざんてん)し、枉(ま)げて辜(つみ)なきに及ばん。疫病流行し、彗星数出(すいせいしばしばい)で、両日(りようじつ)並び現じ、薄屋(はくしよく)恒なく、黒白(こくびやく)の二虹(にこう)不祥の相を表わし、星流れ、地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉に遭(あ)いて、苗実成(みようじつみの)らず、多く他方の怨賊(おんぞく)あつて、国内を侵掠(しんりやく)し、人民諸の苦悩を受け、土地として所楽(しよらく)の処あることなけん」と〈已上〉《云云》。
大集経(だいしつきよう)に云く、「仏法実に隠没(おんもつ)せば、鬚髪爪(しゆはつそう)皆長く、諸法もまた忘失(もうしつ)せん。当時(そのとき)、虚空の中に大(おおい)なる声ありて地に震(ふる)い、一切皆遍(あまね)く動(どう)ぜんこと、なお水上輪(すいじようりん)のごとくならん。城壁破れ落ち下(くだ)り、屋宇(おくう)悉く火(やぶ)れ移(さ)け、樹林の根、枝、葉、華葉(けよう)、菓(か)、薬尽(やくつ)きん。ただ浄居天(じようごてん)を除きて、欲界(よくかい)の一切処(いつさいしよ)の七味(しちみ)・三精気(さんしようけ)、損減(そんげん)して余(あまり)あることなけん。解脱(げだつ)の諸の善論(ぜんろん)、当時(そのとき)一切尽きん。生ずるところの華菓(けか)の味(あじわい)、希少(きしよう)にしてまた美(うま)からず。諸有(しよう)の井泉池(せいせんち)、一切尽(ことごと)く枯涸(こかく)し、土地悉く鹹鹵(かんろ)し、敵裂(てきれつ)して丘澗(くけん)とならん。諸山(しよざん)皆鵜燃して、天竜も雨を降らさず。苗稼(みようけ)皆枯死(こし)し、生者(しようしや)皆死(か)れ尽(つ)きて、余草さらに生ぜず。土を雨(ふら)し、皆昏闇(こんあん)にして、日月明(にちがつめい)を現ぜず。四方皆亢干(こうかん)し、数諸(しばしばもろもろ)の悪瑞(あくずい)を現ぜん。十不善業道(じゆうふぜんごうどう)、貪(とん)、瞋(じん)・痴(ち)倍増し、衆生(しゆじよう)の父母(ぶも)における、これを観(み)ること影鹿(しようろく)のごとくならん。衆生及び寿命(じゆみよう)、色力威楽減(しきりきいらくげん)じ、人天の楽を遠離(おんり)し、皆悉く悪道に堕(だ)せん。かくのごとき不善業の悪王、悪比丘、我(わ)が正法(しようぼう)を毀壊(きえ)し、天人(てんにん)の道を損減(そんげん)せん。諸天善神王(しよてんぜんじんおう)の衆生を悲愍(ひみん)する者、この濁悪(じよくあく)の国を棄てて、皆悉く余方に向わん」と〈已上〉《云云》。
仁王(にんのう)経に云く、「国土乱れん時は、先(ま)ず鬼神(きじん)乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る。賊来(きた)りて国を劫(おびや)かし、百姓亡喪(ひやくしようもうそう)し、臣君(しんくん)、太子(たいし)、王子、百官共に是非を生ぜん。天地怪異(けい)し、二十八宿(にじゆうはつしゆく)、星道、日月、時を失い度を失い、多く賊の起ることあらん」と。
また云く、「我(われ)今五眼(ごげん)をもて明かに三世を見るに、一切の国王は皆過去の世に、五百の仏に侍(つかえ)しによりて、帝王主となることを得たり。これをもつて一切の聖人(せいじん)・羅漢、しかもために彼(か)の国土の中に来生(らいしよう)して、大利益(だいりやく)をなさん。もし王の福(ふく)尽きん時は、一切の聖人皆これ捨去せん。もし一切の聖人去らん時は、七難必ず起らん」と〈已上〉《云云》。
薬師(やくし)経に云く、「もし刹帝利(せつていり)・灌頂王(かんじようおう)等の災難起こらん時には、いわゆる人衆疾疫(にんしゆしつえき)の難・他国侵逼(しんぴつ)の難・自界叛逆(じかいほんぎやく)の難・星宿変怪(せいしゆくへんげ)の難・日月薄触(じつげつはくしよく)の難・非時(ひじ)風雨の難・過時不雨(かじふう)の難あらん」と〈已上〉《云云》。
仁王経に云く、「大王、吾(わ)が今化(け)する所は百億の須弥(しゆみ)、百億の日月あり。一一の須弥に四天下(してんげ)あり。その南閻浮提(なんえんぶだい)に十六の大国・五百の中国・十千の小国あり。その国土の中に七の畏(おそ)るべき難あり。一切の国王、これを難となすが故に。云何(いか)なるを難となす。日月度を失い、時節返逆(ほんぎやく)し、或(あるい)は赤日出(しやくじつい)で、黒日(こくじつ)出で、二三四五の日出で、或は日屋して光なく、或は日輪一重(じゆう)二三四五重輪(じゆうりん)現ずるを一の難となすなり。二十八宿度を失い、金星・彗星(すいせい)・輪星・鬼(き)星・火星・水星・風星・杏(ちよう)星・南斗(なんじゆ)・北斗(ほくと)・五鎮(ごちん)の大星・一切の国主星・三公星・百官星、かくのごとき諸星、各各(おのおの)変現するを二の難となすなり。大火国(くに)を焼き、万姓(ばんしよう)焼き尽し、或は鬼火・竜火・天火《鬼火・天火》・山神火(さんじんか)・人火・樹木火・賊火あらん。かくのごとく変怪(へんげ)するを三の難となすなり。大水(たいすい)百姓を笠没(ひようもつ)し、時節反逆して、冬雨ふり、夏雪ふり、冬の時に雷電霹靂(らいでんへきれき)し、六月に氷霜雹(ひようそうはく)を雨(ふ)らし、赤水(しやくすい)・黒(こく)水・青(せい)水を雨(ふ)らし、土山(どせん)・石山(しやくせん)を雨(ふ)らし、沙(しや)・礫(りやく)・石(しやく)を雨(ふ)らし、江河逆(ごうがさかしま)に流れ、山を浮べ石を流す。かくのごとく変ずる時を四の難となすなり。大風万姓(たいふうばんしよう)を吹殺(ふきころ)し、国土の山河樹木、一時に滅没(めつもつ)し、非時の大風(たいふう)・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん、かくのごとく変ずるを五の難となすなり。天地国土亢陽(こうよう)し、炎火洞燃(えんかどうねん)して百草亢旱(こうかん)し、五穀登(みの)らず、土地赫燃(かくねん)して万姓(ばんしよう)滅尽せん。かくのごとく変ずる時を六の難となすなり。四方の賊来りて国を侵(おか)し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて、百姓荒乱(こうらん)し、刀兵劫(とうひようこう)起らん。かくて如く怪(け)する時を七の難となすなり」と〈已上〉《云云》。
大集経(だいしつきよう)に云(いわ)く、「もし国王ありて、無量世において施(せ)・戒(かい)・慧(え)を修(しゆ)すとも、我(わ)が法の滅せんを見て、捨てて擁護(おうご)せずんば、かくのごとく種(う)うるところの無量の善根(ぜんごん)、悉く皆滅失して、その国にまさに三の不祥(ふしよう)の事あるべし。一には穀実(こくじつ)《穀貴(こくき)》、二には兵革(へいかく)、三には疫(えき)病なり。一切の善神悉くこれを捨離せん。その王教令(きようりよう)するとも人随従せず。常に隣国のために侵雁(しんによう)せられん。暴火横(ほしいまま)に起り、悪風雨多く、暴水(ぼうすい)《雨水(うすい)》増長(ぞうちよう)して人民を吹笠(すいひよう)し、内外(ないげ)の親戚それ共に謀叛(むほん)せん。その王久しからずしてまさに重病(じゆうびよう)に遇(あ)い、寿終(じゆじゆう)の後(のち)、大地獄の中《大地獄》に生ずべし。乃至(ないし)、王のごとく、夫人(ぶにん)・太子・大臣・城主・柱師(ちゆうし)・郡守(ぐんしゆ)・宰官(さいかん)もまたかくのごとくならん」〈已上〉《已上経文》。
その四経の文朗(あきら)かなり。万人(ばんにん)誰か疑わん。しかるに盲瞽(もうこ)の輩(ともがら)、迷惑(めいわく)の人、妄(みだ)りに邪説を信じて、正教(しようきよう)を弁(わきま)えず。故に天下世上(てんかせじよう)、諸仏衆経(しよぶつしゆきよう)において、捨離(しやり)の心を生じて、擁護の志(こころざし)なし。よつて善神(ぜんじん)・聖人(せいじん)、国を捨て所を去る。ここをもつて悪鬼外道(あつきげどう)、災(さい)をなし難を致すなり。


客色(いろ)をなして曰(いわ)く、後漢(ごかん)の明帝(めいてい)は、金人(きんじん)の夢を悟りて白馬(はくば)の教えを得、上宮太子(じようぐうたいし)は、守屋(もりや)の逆(ぎやく)を誅(ちゆう)して寺塔の構えをなす。しかしより来(このかた)、上一人(かみいちじん)より下万民(しもばんみん)に至るまで、仏像を崇(あが)め経巻(きようがん)を専(もつぱら)にす。しかればすなわち、叡山(えいざん)・南都・園城(おんじよう)・東寺、四海・一州・五畿(ごき)・七道、仏経(ぶつきよう)星のごとく羅(つらな)り、堂宇(どうう)雲のごとく布(し)けり。救子(しゆうし)の族(やから)はすなわち鷲頭(じゆとう)の月を観じ、鶴勒(かくろく)の流(たぐい)はまた鶏足(けいそく)の風(ふう)を伝う。誰(たれ)か一代の教(きよう)を去(さみ)し、三宝(さんぼう)の跡を廃すと謂(い)わんや。もしその証(しよう)あらば、委(くわし)くその故を聞かん。

主人喩(さと)して曰く、仏閣甍(ぶつかくいらか)を連(つら)ね、経蔵軒(きようぞうのき)を並ぶ。僧は竹葦(ちくい)のごとく、侶は稲麻(とうま)に似たり。崇重(そうじゆう)年旧(ふ)り、尊貴(そんき)日に新(あらた)なり。ただし、法師(ほつし)は諂曲(てんごく)にして人倫に迷惑し、王臣は不覚(ふかく)にして邪正(じやしよう)を弁(べん)ずることなし。
仁王経(にんのうきよう)に云(いわ)く、「諸の悪比丘、多く名利(みようり)を求め、国王・太子・王子の前において、自(みずか)ら破仏法(はぶつぽう)の因縁(いんねん)・破国(はこく)の因縁を説かん。その王別(わきま)えずしてこの語(ことば)を信聴(しんちよう)し、横(ほしいまま)に法制(ほうせい)を作りて仏戒(ぶつかい)に依らず。これを破仏・破国の因縁となす」と〈已御上〉。
《守護(しゆご)経に云く、「大王、この悪沙門は戒を破し悪を行じ、一切族姓(ぞくしよう)の家を恐穢(おえ)し、国王・大臣・官長に向つて、真実の沙門を論説し毀謗し、横(ほしいまま)に是非を言わん。乃至、一寺同一国邑(こくゆう)の一切の悪事を、皆彼(か)の真実の沙門に推与(すいよ)し、国王・大臣・官長を蒙迂(もうへい)して、遂に真実の沙門を駈逐(くちく)し、尽(ことごと)く国界(こつかい)を出(いだ)さしむ。その破戒の者自在に遊行(ゆぎよう)して、国王・大臣・官長と共に親厚(しんこう)をなさん」と云云。
また云く、「風雨節(せつ)ならず、旱嫁(かんろう)して調(ととの)わず、飢饉相(ききんあい)より、禍敵侵擾(おんてきしんじよう)し、疾疫、災難、無量百千ならん」と云云。
また云く、「釈迦牟尼如来の所(しよう)有の教法は、一切の天魔・外道(げどう)・悪人・五通の神仙(しんせん)も、皆乃至少分(ないししようぶん)をも破壊(はえ)せず。しかるにこの名相(みようそう)ある諸の悪沙門、皆悉く毀滅(きめつ)して余りあることなからしめん。須弥山(しゆみせん)をたとい三千界中の草木を尽して薪(たきぎ)となし、長時に焚焼(ふんしよう)すとも、一毫(ごう)も損ずることなきに、もし劫火(ごうか)起り、火内より生ぜば、須臾(しゆゆ)に焼滅して灰燼(かいじん)を余すことなきがごとし」と云云。
最勝王経に云く、「非法を行ずる者を見て愛敬(あいきよう)を生じ、善法を行ずる人において苦楚(くそ)して治罰(ちばつ)す。悪人を愛敬し善人を治罰するによるが故に、星宿(せいしゆく)及び風雨、皆時をもつて行われず」と。
また云く、「三十三天の衆(しゆ)、咸(ことごと)く忿怒(ふんぬ)の心を生ず。これによつて国政を損し、諂偽世間(てんぎせけん)に行われ、悪風起ること恒なく、暴雨(ぼうう)時にあらずして下(くだ)らん」と云云。
また云く、「彼(か)の諸の天王衆(てんのうしゆ)、共にかくのごとき言(ことば)をなさく、この王非法をなし、悪輩相親附(あくはいあいしんぷ)す。王位久しく安んぜず、諸天皆忿恨(ふんこん)す。彼忿(かれいかり)を懐(いだ)くによるが故に、その国まさに敗亡(はいぼう)すべし。天主護念せず、余の天も咸く捨棄(しやき)し、国土まさに滅亡すべし。王の身に苦厄(くやく)を受け、父母及び妻子、兄弟並に姉妹、倶(とも)に愛別離(あいべつり)に遭い、乃至、身亡歿(みぼうもつ)せん。変怪の流星堕(お)ち、二の日倶時(くじ)に出(い)で、他方の怨賊来りて、国人喪乱(そうらん)に遭(あ)わん」と云云。
大集経(だいしつきよう)に云く、「もしまた諸(もろもろ)の刹利(せつり)国王の諸の非法をなし、世尊の声聞(しようもん)の弟子を悩乱し、もしはもつて毀罵(きめ)し、刀杖(とうじよう)をもつて打斫(ちようしやく)し、及び衣鉢種種(えはつしゆじゆ)の資具(しぐ)を奪い、もしは他の給施(きゆうせ)に留難(るなん)をなす者あらば、我等彼(われらかれ)をして自然(じねん)に他方の怨敵(おんてき)を卒起(そつき)せしめ、及び自(みずか)らの国土もまた兵起(ひようき)し・病疫し・飢饉し・非時に風雨し・闘諍言訟(とうじようごんじよう)せしめん。またその王をして久しからずしてまたまさに己(おの)が国を亡失(もうしつ)せしむべし」と云云。
大涅槃経に云く、「善男子(ぜんなんし)、如来の正法(しようぼう)まさに滅尽せんと欲する、その時に多く行悪の比丘の如来微密(みみつ)の蔵(ぞう)を知らざるものあらん。譬えば痴賊(ちぞく)の真宝(しんぽう)を棄捨(きしや)し、草駆(そうもく)を担負(たんぷ)するがごとし。如来微密(みみつ)の蔵を解(げ)せざるが故に、この経の中において懈怠(けだい)して勤(つと)めず。哀(かな)しいかな、大険当来(だいけんとうらい)の世、甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし。諸の悪比丘この経を抄略(しようりやく)して、分(わか)ちて多分となし、よく正法(しようぼう)の色香美味(しきこうみみ)を滅せん。この諸の悪人、またかくのごとき経典を読誦すといえども、如来の深密(じんみつ)の要義を滅除して、世間の荘厳(しようごん)の文飾無義(もんじきむぎ)の語(ご)を安置(あんち)し、前を抄して後に著(つ)け、後を抄して前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。まさに知るべし、かくのごとき諸の悪比丘は、これ魔の伴侶(はんりよ)なり」と。》
涅槃経に云く《また云く》、「菩薩、悪象等においては、心に恐怖(くふ)することなかれ。悪知識においては、怖畏(ふい)の心を生ぜよ。悪象のために殺されては三趣(さんしゆ)に至らず。悪友(あくゆう)のために殺さるれは必ず三趣に至る」と〈已上〉《云云》。
法華経に云く悟、「《諸の無智の人、悪口罵詈等(あつくめりとう)し、及び刀杖を加うる者あらん。我等(われら)皆まさに忍ぶべし。》悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲(てんごく)に、いまだ得ざるをこれ得たりと謂(おも)い、我慢(がまん)の心充満せん。或(あるい)は阿練若(あれんにや)に、納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)にあり、自(みずか)ら真(しん)の道(どう)を行(ぎよう)ずと謂うて、人間を軽賤(きようせん)する者あらん。利養(りよう)に貪著(とんじやく)するが故に、白衣(びやくえ)のために法を説きて、世(よ)に恭敬(くぎよう)せらるること、六通(ろくつう)の羅漢(らかん)のごとくならん。乃至(ないし)、常に大衆(だいしゆ)の中にあつて、我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士(こじ)、及び余の比丘衆(びくしゆ)に向つて、誹謗(ひほう)して我が悪を説きて、これ邪見の人、外道(げどう)の論議(ろんぎ)を説くと謂(い)わん。濁劫悪世(じよくこうあくせ)の中には、多く諸の恐怖(くふ)あらん。悪鬼(あくき)その身に入(い)つて、我(われ)を罵詈毀辱(めりきにく)せん。濁世(じよくせ)の悪比丘は、仏の方便、随宜(ずいぎ)所説の法を知らず、悪口(あつく)して顰蹙(ひんじゆく)し、数数擯出(しばしばひんずい)せられん」と〈已上〉《云云》。
涅槃経に云く、「我(われ)涅槃の後、無量百歳に、四道の聖人(しようにん)悉くまた涅槃せん。正法(しようぼう)滅して後、像法(ぞうほう)の中において、まさに比丘あるべし。像(かたち)を持律(じりつ)に似せ、少(わずか)に経を読誦し、飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)して、その身を長養(ちようよう)し、袈裟(けさ)を著(ちやく)すといえども、なお猟師の細めに視(み)て徐(おもむろ)に行くがごとく、猫の鼠(ねずみ)を伺うがごとし。常にこの言(ことば)を唱えん、我羅漢(われらかん)を得たりと。外には賢善を現じ、内には貪嫉(とんしつ)を懐(いだ)かん。穐法(あほう)を受くる婆羅門等のごとく、実には沙門(しやもん)にあらずして沙門の像(すがた)を現じ、邪見熾盛(しじよう)にして、正法(しようぼう)を誹謗(ひほう)せん」と〈已上〉。
《涅槃経に云く、「善男子(ぜんなんし)、一闡提(せんだい)ありて羅漢(らかん)の像(すがた)となりて空処(くうしよ)に住し、方等大乗(ほうどうだいじよう)経典を誹謗(ひほう)せん。諸の凡夫の人見おわつて、皆真(しん)の阿羅漢、これ大菩薩なりと謂わん」と〈云云〉。
般泥亀(はつないおん)経に云く、「羅漢に似たる一闡提ありて悪業(あくごう)を行じ、一闡提に似たる阿羅漢の慈心(じしん)をなす。羅漢に似たる一闡提ありとは、これ諸の衆生(しゆじよう)の方等を誹謗するなり。一闡提に似たる阿羅漢とは、声聞を毀呰(きし)して広く方等を説き、衆生に語りて言わん、我(われ)と如来と倶(とも)にこれ菩薩なり、所以(ゆえ)は如何(いかん)、一切皆如来の性(しよう)あるが故にと。しかも彼(か)の衆生は一闡提と謂(おも)わん」と。
また云く、「究竟(くきよう)の処を見ざれば、永く彼(か)の一闡提の輩(やから)の究竟の悪を見ず。また彼(か)の無量の生死究竟の処を見ず」〈已上経文〉。》
文(もん)に就(つい)て世を見るに、誠にもつてしかなり。悪侶を誡(いまし)めざれば、あに善事(ぜんじ)をなさんや。


客なお憤(いきどお)りて曰く、明王(めいおう)は天地によつて化(け)をなし、聖人(せいじん)は理非(りひ)を察して世を治む。世上(せじよう)の僧侶は天下の帰するところなり。悪侶においては明王信ずべからず。聖人にあらずんば賢哲(けんてつ)仰ぐべからず。今賢聖(けんせい)の尊重せるをもつて、すなわち竜象(りゆうぞう)の軽(かろ)からざるを知る。何ぞ妄言(もうごん)を吐きて強(あなが)ちに誹謗(ひほう)をなす。誰人(たれひと)をもつて悪比丘と謂(い)うや。委細に聞かんと欲す。

主人の曰く《客の疑いに付いて重重(じゆうじゆう)の子細ありといえども、繁(はん)を厭(いと)うて多事を止め、しばらく一を出(いだ)さん、万(まん)を察せよ。》後鳥羽院(ごとばいん)の御宇(ぎよう)に法然(ほうねん)というものあり、選択集(せんちやくしゆう)を作れり。すなわち一代の聖教(しようぎよう)を破し、遍(あまね)く十方の衆生(しゆじよう)を迷わす。
その選択(せんちやく)に云く、「道綽禅師(どうしやくぜんじ)、聖道(しようどう)・浄土(じようど)の二門を立て、聖道を捨てて正(まさ)しく浄土に帰するの文(もん)。初(はじめ)に聖道門とは、これに就て二あり。乃至(ないし)、これに准じてこれを思うに、まさに密大(みつだい)及び実大を存すべし。しかればすなわち、今の真言(しんごん)・仏心(ぶつしん)・天台(てんだい)・華厳(けごん)・三論(さんろん)・法相(ほつそう)・地論(じろん)・摂論(しようろん)、これら八家(はつけ)の意(い)、正(まさ)しくここにあるなり。曇鸞法師(どんらんほつし)の往生論註(おうじようろんちゆう)に云く、謹んで竜樹(りゆうじゆ)菩薩の十住毘婆沙(じゆうじゆうびばしや)を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致(あびばつち)を求むるに二種の道(どう)あり。一には難行道(なんぎようどう)、二には易行道(いぎようどう)なり。この中に難行道とは、すなわちこれ聖道門なり。易行道とは、すなわちこれ浄土門なり。浄土宗の学者、先(ま)ずすべからくこの旨(むね)を知るべし。たとい先(さき)より聖道門を学ぶ人なりといえども、もし浄土門においてその志あらん者は、すべからく聖道を棄(す)てて浄土に帰すべし」と。
また云く、「善導和尚(ぜんどうわじよう)、正(しよう)・雑(ぞう)二行を立て、雑行(ぞうぎよう)を捨てて正行(しようぎよう)に帰するの文(もん)。第一に読誦(どくじゆ)雑行とは、上(かみ)の観経(かんぎよう)等の往生浄土の経を除きて已外(いげ)、大小乗、顕密(けんみつ)の諸経において受持(じゆじ)・読誦するを、悉く読誦雑行と名づく。第三に礼拝(らいはい)雑行とは、上(かみ)の弥陀(みだ)を礼拝するを除きて已外、一切の諸仏・菩薩等、及び諸の世天(せてん)等において礼拝恭敬(くぎよう)するを、悉く礼拝雑行と名づく。私(わたくし)に云く、この文(もん)を見るに、すべからく雑(ぞう)を捨てて専(せん)を修(しゆ)すべし。あに百即百生(ひやくそくひやくしよう)の専修正行(せんしゆしようぎよう)を捨てて、堅く千中無一(せんちゆうむいち)の雑修雑行(ざつしゆぞうぎよう)を執(しゆう)せんや。行者よくこれを思量せよ」と。
また云く、「貞元入蔵録(じようげんにゆうぞうろく)の中、始め大般若経(だいはんにやきよう)六百巻より法常住(ほうじようじゆう)経に終るまで、顕密の大乗経、総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり。皆すべからく読誦大乗の一句に摂(せつ)すべし。まさに知るべし、随他の前には、しばらく定散(じようさん)の門を開くといえども、随自の後(のち)には、還つて定散の門を閉(と)ず。一(ひと)たび開いて以後、永く閉じざるは、ただこれ念仏の一門なり」と。
また云く、「念仏の行者、必ず三心(さんしん)を具足(ぐそく)すべきの文(もん)。観無量寿経(かんむりようじゆきよう)に云く、同経の疏(しよ)に云く、問うて云く、もし解行(げぎよう)の不同、邪雑(じやぞう)の人等(ひとら)あつて、外邪異見(げじやいけん)の難を防がん。或(あるい)は行くこと一分(ぶ)二分にして、群賊(ぐんぞく)等喚(よ)び回(かえ)すとは、すなわち別解(べつげ)・別行(べつぎよう)・悪見(あつけん)の人等に喩(たと)う。私(わたくし)に云く、また《云く》この中に一切の別解・別行・異学(いがく)・異見等と言うは、これ聖道門を指すなり」と〈已上〉。
また最後結句の文に云く、「それ速(すみや)かに生死(しようじ)を離れんと欲せば、二種の勝法(しようぼう)の中に、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入(い)れ。浄土門に入らんと欲せば、正(しよう)・雑(ぞう)二行の中に、しばらく諸の雑行を賀(なげう)ちて、選んでまさに正行に帰(き)すべし」と〈已上〉。
これに就いてこれを見るに、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしやく)・善導(ぜんどう)の壊釈(びゆうしやく)を引いて、聖道(しようどう)・浄土(じようど)、難行(なんぎよう)・易行(いぎよう)の旨(むね)を建(た)て、法華・真言、総じて一代の大乗、六百三十七部二千八百八十三巻、《並に》一切の諸仏・菩薩、及び諸の世天等をもつて、皆聖道・難行・雑行(ぞうぎよう)等に摂(せつ)して、或(あるい)は捨て、或は閉じ、或は閣(さしお)き、或は賀(なげう)つ。この四字をもつて、多く一切を迷わし、剰(あまつさ)え三国の聖僧(せいそう)・十方(じつぽう)の仏弟(ぶつてい)をもつて、皆群賊と号し、併(あわ)せて罵詈(めり)せしむ。近くは所依(しよえ)の浄土三部経の「唯除五逆誹謗正法(ゆいじよごぎやくひほうしようぼう)」の誓文(せいもん)に背(そむ)き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若人不信毀謗此経(にやくにんふしんきほうしきよう)、乃至(ないし)、其人命終入阿鼻獄(ごにんみようじゆうにゆうあびごく)」の誡文(かいもん)に迷う者なり。
ここに代末代(よまつだい)に及び、人聖人(ひとせいじん)にあらず。各冥衢(おのおのみようく)に容(い)りて、並に直道(じきどう)を忘る。悲しいかな、瞳蒙(どうもう)を隔(う)たず。痛ましいかな、徒(いたずら)に邪信(じやしん)を催(もよお)す。故(ゆえ)に上(かみ)国王《国主(こくしゆ)》より下土民(しもどみん)に至るまで、皆経は浄土三部の外(ほか)の経なく、仏は弥陀三尊(みださんぞん)の外の仏なしと謂(おも)えり。よつて伝教(でんぎよう)・義真(ぎしん)《弘法(こうぼう)》・慈覚(じかく)・智証(ちしよう)等、或は万里(ばんり)の波濤(はとう)を渉りて渡せしところの聖教(しようぎよう)、或は一朝(いつちよう)の山川(さんせん)を回(めぐ)りて崇(あが)むるところの仏像、もしは高山(こうざん)の巓(いただき)に華界(けかい)を建(た)ててもつて安置(あんち)し、もしは深谷(しんこく)の底に蓮宮(れんぐう)を起(た)ててもつて崇重(そうじゆう)す。釈迦・薬師(やくし)の光を並ぶるや、威(い)を現当に施(ほどこ)し、虚空(こくう)・地蔵の化をなすや、益(やく)を生後(しようご)に被(こうむ)らしむ。故(ゆえ)に国主は郡郷(ぐんごう)を寄せてもつて灯燭(とうしよく)を明(あきら)かにし、地頭(じとう)は田園を充(あ)ててもつて供養に備う。しかるを法然の選択(せんちやく)によつて、すなわち教主を忘れて西土(さいど)の仏駄(ぶつだ)を貴(たつと)び、付属(ふぞく)を賀(なげう)ちて東方の如来を閣(さしお)き、ただ四巻(かん)三部の経典を専らにして、空(むな)しく一代五時の妙典を賀(なげう)つ。ここをもつて、弥陀の堂にあらざれば皆供仏(くぶつ)の志を止(や)め、念仏の者にあらざれば早く施僧(せそう)の懐(おもい)を忘る。故に仏堂零落(れいらく)して瓦松(がしよう)の煙老い、僧房荒廃(そうぼうこうはい)して庭草(ていそう)の露深し。しかりといえども、各護惜(おのおのごしやく)の心を捨てて、並に建立(こんりゆう)の思(おもい)を廃す。ここをもつて住持(じゆうじ)の聖僧行(せいそうゆ)きて帰らず。守護の善神去りて来ることなし。これ偏(ひとえ)に法然の選択(せんちやく)に依るなり。悲しいかな、数十年の間、百千万の人、魔縁(まえん)に蕩(とろか)されて、多く仏教に迷えり。傍(ぼう)を好んで正(しよう)を忘る、善神怒りをなさざらんや。円(えん)《正(しよう)》を捨てて偏(へん)《邪》を好む、悪鬼便(あつきたよ)りを得ざらんや。如(し)かず、彼(か)の万祈(ばんき)を修(しゆ)せんより、この一凶(いつきよう)を禁ぜんには。


客殊(こと)に色をなして曰(いわ)く、我(わ)が本師釈迦文(しやかもん)、浄土の三部経を説きたまいてより以来(このかた)、曇鸞法師(どんらんほつし)は四論(しろん)の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽(どうしやく)禅師は涅槃の広業(こうごう)を閣(さしお)きて偏(ひとえ)に西方(さいほう)の行(ぎよう)《行業(ぎようごう)》を弘め、善導和尚(ぜんどうわじよう)は雑行(ぞうぎよう)を賀(なげう)ちて専修(せんじゆ)を立て《法華の雑行を賀ちて観経の専修に入り》、恵心僧都(えしんそうず)は諸経の要文を集めて念仏の一行(いちぎよう)を宗(しゆう)とす、《永観律師(ようかんりつし)は顕密の二門を閉じて念仏の一道に入る》。弥陀(みだ)を貴重(きちよう)すること誠にもつてしかなり。また往生の人それ幾(いく)ばくぞや。なかんずく、法然聖人は幼少にして天台山《叡山》に昇り、十七にして六十巻に渉り、並に八宗を究めて、具(つぶ)さに大意を得たり。その外(ほか)、一切の経論七遍反覆(はんぷく)し、章疏(しようじよ)伝記究(きわ)め看(み)ざることなし。智は日月に斉(ひと)しく、徳は先師に越えたり。しかりといえども、なお出離(しゆつり)の趣に迷い、涅槃の旨(むね)を弁(わきま)えず。故に遍(あまね)く見、悉く鑒(かんが)み、深く思い、遠く慮(おもんばか)り、遂に諸経を賀(なげう)ちて、専(もつぱ)ら念仏を修(しゆ)す。その上、一夢の霊応(れいおう)を蒙(こうむ)り、四裔(しえい)の親疎(しんそ)に弘む。故に或(あるい)は勢至(せいし)の化身(けしん)と号し、或は善導の再誕(さいたん)と仰ぐ。しかればすなわち、十方の貴賤頭(こうべ)を低(た)れ、一朝の男女歩(なんによあゆみ)を運ぶ。しかしより来(このかた)、春秋推(お)し移り星霜相い積れり《積れり》。しかるに忝(かたじけな)くも釈尊の教えを疎(おろそ)かにして、恣(ほしいまま)に弥陀の文を譏(そし)る。何ぞ近年の災をもつて聖代(せいだい)の時に課(おお)せ、強(しい)て先師を毀(そし)り、さらに聖人(しようにん)を罵(ののし)るや。毛を吹きて郷(きず)を求め、皮を剪(き)りて血を出(いだ)す。昔より今に至るまでかくのごとき悪言(あくごん)いまだ見ず。惶(おそ)るべく慎むべし。罪業(ざいごう)至つて重く、科条争(いかで)か蔚(のが)れん。対座なおもつて恐れあり、杖を携えてすなわち帰らんと欲す。

主人咲(え)み止(とど)めて曰く、辛きを蓼葉(りようよう)に習い、臭(くさ)きを溷厠(こんし)に忘る。善言(ぜんごん)を聞きて悪言と思い、謗者を指して聖人(しようにん)と謂(い)い、正師(しようし)を疑うて悪侶(あくりよ)に擬(ぎ)す。その迷い誠に深く、その罪浅からず。事(こと)の起りを聞け、委(くわ)しくその趣(おもむき)を談ぜん。釈尊説法の内、一代五時の間に先後(せんご)を立てて権実(ごんじつ)を弁ず。しかるに曇鸞・道綽・善導《等》、すでに権に就(つ)いて実を忘れ、先に依つて後を捨(す)つ。いまだ仏教の淵底(えんてい)を探(さぐ)らざる者なり。なかんずく、法然その流れを酌(く)むといえどもその源(みなもと)を知らず。所以(ゆえ)は何(いか)ん。大乗経六百三十七部二千八百八十三巻、並に一切の諸仏菩薩、及び諸の世天(せてん)等をもつて捨閉閣賀(しやへいかくほう)の字《四字》を置いて、一切衆生(しゆじよう)の心を薄(おか)す《蕩(とろ)かす》。これ偏に私曲(しきよく)の詞(ことば)を展(の)べて、全く仏経の説を見ず。妄語(もうご)の至り、悪口(あつく)の科(とが)、言いても比(たぐい)なく、責めても余りあり。《具(つぶさ)に事(こと)の心を案ずるに、慈恩(じおん)・弘法(こうぼう)の三乗真実一乗方便・望後作戯論(もうごさけろん)の邪義にも超過し、光宅(こうたく)・法蔵の涅槃正見(しようけん)法華邪見・寂場本教鷲峰末教(じやくじようほんきようじゆほうまつきよう)の悪見(あつけん)にも勝出(しようしゆつ)せり。大慢婆羅門(だいまんばらもん)の蘇生(そせい)か、無垢論師(むくろんじ)の再誕か。毒蛇を恐怖(くふ)し、悪賊を遠離せよ。破仏法(はぶつぽう)の因縁(いんねん)・破国(はこく)の因縁の金言(きんげん)これなり。しかるに》人皆その妄語を信じ、悉く彼(か)の選択(せんちやく)を貴ぶ。故に浄土の三経を崇(あが)めて衆経(しゆきよう)を賀(なげう)ち、極楽(ごくらく)の一仏を仰ぎて諸仏を忘る。誠にこれ諸仏・諸経の怨敵、聖僧(せいそう)・衆人(しゆにん)の讎敵(しゆうてき)なり。この邪教広く八荒(はつこう)に弘まり、周(あまね)く十方に遍(へん)す。
抑(そもそ)も近年の災をもつて往代を難ずるの由、強ちにこれを恐る。聊(いささ)か先例を引いて汝の迷いを悟(さと)すべし。止観(しかん)の第二に史記(しき)を引いて云く、「周(しゆう)の末(すえ)に被髪袒身(ひはつたんしん)にして礼度(れいど)に依らざる者あり」と。弘決(ぐけつ)の第二にこの文を釈するに、左伝(さでん)を引いて曰く、「初め平王(へいおう)の東遷するや、伊川(いせん)に髪(はつ)を被(こうむ)る者、野において祭るを見る。識者の曰く、百年に及ばじ、その礼(れい)先ず亡(ほろ)びぬ」と。ここに知りぬ。徴前(しるしさき)に顕(あら)われ、災後(わざわいのち)に致(いた)ることを。また「阮藉逸才(げんせきいつさい)にして牛頭散帯(ほうとうさんたい)す。後に公胃(こうけい)の子孫皆これに教(なら)い、奴苟相辱(どこうあいはずか)しむる者を方(まさ)に自然に達すといい、寛節競持(そんせつきようじ)する者を呼んで田舎(でんしや)となす。司馬(しば)氏の滅ぶる相となす」と〈已上〉。また慈覚大師の入唐巡礼記(につとうじゆんれいき)を案ずるに云(いわ)く、「唐の武宗皇帝(ぶそうこうてい)の会昌(えしよう)元年、勅して章敬寺(しようきようじ)の鏡霜法師(きようそうほつし)をして、諸寺において弥陀念仏(みだねんぶつ)の教を伝えしむ。寺毎に三日巡輪(じゆんりん)すること絶(た)えず。同二年、回鶻国(かいこつこく)の軍兵(ぐんぴよう)等、唐の堺を侵(おか)す。同三年、河北(かほく)の節度使(せつどし)忽ち乱を起す。その後、大蕃国(だいばんこく)また命を拒(こば)み、回鶻国重ねて地を奪う。およそ兵乱は秦項(しんこう)の代(よ)に同じく、災火は邑里(ゆうり)の際に起る。いかにいわんや、武宗大(おおい)に仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を揆(おさ)むること能(あた)わずして、遂にもつて事(こと)あり」と〈已上取意〉。
これをもつてこれを惟(おも)うに、法然は後鳥羽(ごとば)院の御宇(ぎよう)、建仁(けんにん)年中の者なり。彼(か)の院の御事(おんこと)すでに眼前にあり。しかればすなわち、大唐に例を残し、吾が朝に証を顕わす。汝疑うことなかれ、汝怪しむことなかれ。ただすべからく凶を捨てて善に帰し、源を塞(ふさ)ぎて根を截(き)るべし。


客聊(いささ)か和(やわら)ぎて曰く、いまだ淵底(えんてい)を究めざれども、ほぼその趣(おもむき)を知る。ただし華洛(からく)より柳営(りゆうえい)に至るまで、釈門(しやくもん)に枢兜(すうけん)あり、仏家(ぶつけ)に棟梁(とうりよう)あり。しかれども《しかりしかして》いまだ勘状(かんじよう)を進(まい)らせず。上奏(じようそう)に及ばず。汝賤(いや)しき身をもつて、輙(たやす)く莠言(ゆうげん)を吐く。その義余りあり、その理謂(いわれ)なし。

主人の曰く、予(よ)少量たりといえども、忝(かたじけな)くも大乗を学す。蒼蠅(そうよう)、驥尾(きび)に附して万里を渡り、碧羅(へきら)、松頭(しようとう)に懸(かか)りて千尋(せんじん)を延ぶ。弟子一仏(でしいちぶつ)の子と生まれ、諸経の王に事(つか)う。何ぞ仏法の衰微を見て、心情の哀惜(あいせき)を起さざらんや。
その上、《法華経に云く、「薬王(やくおう)、今汝に告ぐ、我が所説の諸経、しかもこの経の中において法華最(もつと)も第一なり」と。また云く、「我が所説の経典無量千万億にして、已(すで)に説き今説き当(まさ)に説かん。しかもその中においてこの法華経最もこれ難信難解(なんしんなんげ)なり」と。また云く、「文殊師利、この法華経は諸仏如来の秘密の蔵(ぞう)なり。諸経の中において最もその上(かみ)にあり」と。また云く、「衆山(しゆせん)の中に須弥山(しゆみせん)これ第一なり。衆星(しゆせい)の中に月天子(がつてんじ)最もこれ第一なり。また日天子(につてんじ)のよく諸の闇を除くがごとく、また大梵天王の一切衆生(しゆじよう)の父なるがごとく、よくこの経典を受持することあらん者は、またかくのごとし。一切衆生の中においてまたこれ第一なり」と》。
《大》涅槃経に云く、「もし善比丘ありて、法を壊る者を見て、置いて呵責(かしやく)し駈遣(くけん)し挙処(こしよ)せずんば、まさに知るべし、この人は仏法の中の怨(あだ)なり。もしよく駈遣し呵責し挙処せば、これ我が弟子、真の声聞(しようもん)なり」と。
《法華経に云く、「我れ身命(しんみよう)を愛せず、ただ無上道を惜しむ」と。
大涅槃経に云く、「譬えば、王の使のよく談論し方便に巧(たくみ)なる、命(めい)を他国に奉ずるに、寧(むし)ろ身命を喪(うしな)うとも終(つい)に王の所説の言教(ごんきよう)を匿(かく)さざるがごとく、智者もまたしかなり。凡夫の中において身命を惜しまずして、かならず大乗方等如来の秘蔵は、一切衆生に皆仏性あることを宣説(せんぜつ)すべし」と〈已上経文〉》。
余(よ)、善比丘の身たらずとえども、仏法中怨(ぶつぽうちゆうおん)の責(せめ)を蔚(のが)れんがために、ただ大綱を撮(と)つてほぼ一端を示す。
その上、去(い)ぬる元仁(げんにん)年中に、延暦(えんりやく)・興福(こうふく)の両寺より、度度奏聞(たびたびそうもん)を経(へ)て、勅宣(ちよくせん)・御教書(みぎようしよ)を申し下(くだ)して、法然の選択(せんちやく)の印板(いんばん)を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんがために、これを焼失せしめ、法然の墓所においては、感神院(かんじんいん)の犬神人(いぬじにん)に仰せ付けて破却せしむ。その門弟、隆観(りゆうかん)・聖光(しようこう)・成覚(じようがく)・薩生(さつしよう)等は遠国(おんごく)に配流(はいる)せられ、その後いまだ御勘気を許されず。あにいまだ勘状を進(まい)らせずと云わんや。」


客則ち和(やわら)ぎて曰く、経を下(くだ)し僧を謗(ほう)ずること、一人として論じ難(がた)し。しかれども大乗経六百三十七部二千八百八十三巻、並に一切の諸仏・菩薩、及び諸の世天(せてん)等をもつて、捨(しや)・閉(へい)・閣(かく)・賀(ほう)の四字に載(の)す。その詞(ことば)勿論なり。その文顕然(けんねん)なり。この瑕瑾(かきん)を守りて、その誹謗(ひほう)を成(な)す。迷うて言うか、覚(さと)りて語るか。賢愚(けんぐ)弁えず、是非定め難し。ただし災難の起りは選択によるの由(よし)、盛んにその詞(ことば)を増し、いよいよその旨を談ず。所詮、天下泰平国土安穏(てんかたいへいこくどあんのん)は君臣(くんしん)の楽(ねが)うところ、土民(どみん)の思うところなり。それ国は法に依つて昌(さか)え、法は人に因(よ)つて貴(たつと)し。国亡び人滅せば、仏を誰か崇(あが)むべき、法をば誰か信ずべきや。先ず国家を祈りて、すべからく仏法を立つべし。もし災(さい)を消し、難(なん)を止(とど)むるの術あらば、聞かんと欲す。

主人の曰く、余はこれ頑愚(がんぐ)にして、あえて賢を存せず。ただ経文について聊(いささ)か所存を述べん。そもそも治術(ちじゆつ)の旨、内外(ないげ)の間に、その文幾多(もんいくばく)ぞや。具(つぶさ)に挙(あ)ぐべきこと難(かた)し。ただし仏道に入(い)つて、数愚案(しばしばぐあん)を回(めぐ)らすに、謗法(ほうぼう)の人を禁(いまし)めて、正道(しようどう)の侶(りよ)を重んぜば、国中安穏(こくちゆうあんのん)にして天下泰平ならん。
すなわち涅槃経に云く、「仏の言(のたまわ)く、ただ一人(いちにん)を除きて余の一切に施(ほどこ)さば、皆讃歎(さんだん)すべし。純陀(じゆんだ)問うて言(いわ)く、云何(いか)なるをか名づけて唯除一人(ゆいじよいちにん)となす。仏の言(のたまわ)く、この経の中に説くところのごときは破戒(はかい)なり。純陀また言(いわ)く、我れ今いまだ解(げ)せず、ただ願わくはこれを説きたまえ。仏、純陀に語りて言(のたまわ)く、破戒とは謂(いわ)く、一闡提(いつせんだい)なり。その余のあらゆる一切に布施するは、皆讃歎(さんだん)すべし。大果報を獲(え)ん。純陀また問いたてまつる。一闡提とはその義云何(いかん)。仏の言(のたまわ)く、純陀、もし比丘(びく)及び比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)あつて、麁悪(そあく)の言(ことば)を発し、正法(しようぼう)を誹謗(ひほう)し、この重業を造りて永く改悔(かいげ)せず、心に懺悔(さんげ)なからん。かくのごとき等(ら)の人を名づけて一闡提の道に趣向(しゆこう)すとなす。もし四重(しじゆう)を犯し、五逆罪を作り、自ら定めてかくのごとき重事を犯すと知れども、しかも心に初めより怖畏(ふい)・懺悔なく、あえて発露(ほつろ)せず。彼(か)の正法(しようぼう)において永く護惜建立(ごしやくこんりゆう)の心なく、毀呰軽賤(きしきようせん)して、言(ことば)に禍咎(かぐ)多からん。かくのごとき等(ら)をまた一闡提の道に趣向(しゆこう)すと名づく。ただかくのごとき一闡提の輩(ともがら)を除きて、その余に施さば一切讃歎すべし」と。
また云く、「我れ往昔(むかし)を念(おも)うに、閻浮提(えんぶだい)において大国の王となれり。名を仙予(せんよ)と曰(い)いき。大乗経典を愛念し敬重(きようじゆう)し、その心純善にして、麁悪嫉劃(そあくしつりん)あることなし。善男子(ぜんなんし)、我れその時において、心に大乗を重んず。婆羅門(ばらもん)の方等(ほうどう)を誹謗(ひほう)するを聞き、聞き已(おわ)つて即時(そくじ)にその命根(みようこん)を断(た)つ。善男子、この因縁をもつて、これより已来(このかた)地獄に堕(だ)せず」と。また云く、「如来、昔(むかし)国王となりて、菩薩の道を行ぜし時、爾所(そこばく)の婆羅門(ばらもん)の命を断絶す」と。
また云く、「殺(せつ)に三あり、謂(いわ)く下中上(げちゆうじよう)なり。下とは蟻子乃至(ぎしないし)一切の畜生なり。ただ菩薩示現生(じげんしよう)の者を除く。下殺(げせつ)の因縁をもつて、地獄・畜生・餓鬼に堕して、具(つぶさ)に下(げ)の苦を受く。何をもつての故に。この諸の畜生に微(み)の善根(ぜんごん)あり、この故に殺さば具に罪報を受く。中殺(ちゆうせつ)とは、凡夫人(ぼんぷにん)より阿那含(あなごん)に至るまで、これを名づけて中となす。この業因(ごういん)をもつて、地獄・畜生・餓鬼《地獄・餓鬼》に堕して、具に中(ちゆう)の苦を受く。上殺(じようせつ)とは、父母乃至阿羅漢(あらかん)・辟支仏(びやくしぶつ)・畢定(ひつじよう)の菩薩なり。阿鼻(あび)大地獄の中に堕す。善男子、もしよく一闡提を殺すことあらん者は、すなわちこの三種の殺の中に堕せず。善男子、彼(か)の諸の婆羅門等は、一切皆これ一闡提なり」と〈已上〉。
仁王(にんのう)経に云く、「仏、波斯匿(はしのく)王に告(つ)げたまわく、この故に諸の国王に付属(ふぞく)して、比丘(びく)・比丘尼(びくに)に付属せず。何をもつての故に。王の威力(いりき)なければなり」と〈已上〉。
涅槃経(ねはんぎよう)に云く、「今無上(いまむじよう)の正法(しようぼう)をもつて、諸王・大臣・宰相、及び四部(しぶ)の衆(しゆ)に付属す。正法を毀(そし)る者をば、大臣・四部の衆、まさに苦治すべし」と。
また云く、「仏の言(のたまわ)く、迦葉、よく正法(しようぼう)を護持する因縁をもつての故に、この金剛身(こんごうしん)を成就(じようじゆ)することを得たり。善男子(ぜんなんし)、正法を護持せん者は、五戒を受けず、威儀を修(しゆ)せずして、まさに刀剣・弓厭(きゆうせん)・鉾槊(むさく)を持(じ)すべし」と。
また云く、「もし五戒を受持することあらん者は、名づけて大乗の人となすことを得ざるなり。五戒を受けざれども、正法を護るをもつて、すなわち大乗と名づく。正法を護る者は、まさに刀剣・器杖を執持すべし。刀杖(とうじよう)を持(たも)つといえども、我れこれらを説きて、名づけて持戒と曰(い)わん」と。
また云く、「善男子(ぜんなんし)、過去の世にこの拘尸那城(くしなじよう)において、仏の世に出(い)でたもうことありき。歓喜増益如来(かんぎぞうやくによらい)と号したてまつる。仏涅槃(ほとけねはん)の後(のち)、正法世(しようぼうよ)に住すること無量億歳なり。余(よ)の四十年、仏法の末(すえ)《いまだ滅せず》、その時に一(ひとり)の持戒の比丘あり。名を覚徳(かくとく)と曰(い)う。その時に多く破戒の比丘あり。この説をなすを聞きて、皆悪心を生じ、刀杖を執持(しゆうじ)して、この法師(ほつし)を逼(せ)む。この時の国王、名を有徳(うとく)と曰(い)う。この事を聞き已(おわ)つて、護法のための故に、すなわち説法者の所(もと)に往至(おうし)して、この破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。その時に説法者厄害(やくがい)を免(まぬが)るることを得たり。王その時において、身に刀剣(とうけん)厭槊(せんさく)《鉾槊(むさく)》の瘡(きず)を被(こうむ)り、体(たい)に完(まつた)き処は芥子(けし)のごときばかりもなし。その時に覚徳、尋(つ)いで王を讃(ほ)めて言(いわ)く、善哉善哉、、王、今(いま)真にこれ正法(しようぼう)を護る者なり。当来(とうらい)の世に、この身まさに無量の法器となるべし。王、この時において、法を聞くことを得已(おわ)つて、心大いに歓喜し、尋(つ)いですなわち命終(みようじゆう)して、阿沖仏(あしゆくぶつ)の国に生じ、しかも彼の仏のために第一の弟子となる。その王の将従(しようじゆう)・人民(にんみん)・眷属(けんぞく)の戦闘することありし者、歓喜することありし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉く阿沖仏の国に生ず。覚徳比丘却(かえ)つて後(のち)、寿(いのち)終りてまた阿沖仏の国に往生することを得、しかも彼の仏のために声聞衆(しようもんしゆ)の中の第二の弟子となる。もし正法(しようぼう)尽きんと欲することあらん時、まさにかくのごとく受持し擁護(おうご)すべし。迦葉(かしよう)、その時の王とは我が身これなり。説法の比丘は迦葉仏これなり。迦葉、正法を護る者は、かくのごとき等(ら)の無量の果報を得ん。この因縁をもつて、我れ今日において、種種の相を得て、もつて自ら荘厳(しようごん)し、法身不可壊(ほつしんふかえ)の身を成(じよう)ず。仏、迦葉菩薩に告げたまわく、この故に法を護らん優婆塞(うばそく)等は、まさに刀杖を執持(しゆうじ)して、擁護することかくのごとくなるべし。善男子、我れ涅槃の後、濁悪(じよくあく)の世に、国土荒乱(こうらん)し、互(たがい)に相抄掠(あいしようりやく)し、人民飢餓(きが)せん。その時に多く飢餓のための故に、発心(ほつしん)出家するものあらん。かくのごときの人を名づけて禿人(とくにん)となす。この禿人の輩(ともがら)、正法(しようぼう)を護持するを見て、駈逐(くちく)して出(いだ)さしめ、もしは殺し、もしは害せん。この故に、我れ今、持戒の人、諸の白衣(びやくえ)の刀杖を持つ者によつて、もつて伴侶となすことを聴(ゆる)す。刀杖を持(たも)つといえども、我れはこれらを説きて、名づけて持戒と曰わん。刀杖を持つといえども、命を断ずべからず」と。
法華経に云く、「もし人信ぜずして、この経を毀謗(きほう)せば、すなわち一切世間の仏種(ぶつしゆ)を断ぜん。《また云く、「経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉(きようせんぞうしつ)して結恨(けつこん)を懐(いだ)かん。》乃至(ないし)、その人命終(みようじゆう)して、阿鼻獄に入らん」〈已上〉《已上経文》。
それ経文顕然(けんねん)なり。私の詞(ことば)何ぞ加えん。およそ法華経のごとくんば、大乗経典を謗(ほう)ずる者は、無量の五逆に勝(すぐ)れたり。故に阿鼻大城に堕して、永く出(い)ずる期(ご)なけん。涅槃経のごとくんば、たとい五逆の供(く)を許すとも謗法の施(せ)を許さず。蟻子(ぎし)を殺す者は、必ず三悪道に落つ。謗法を禁(とど)むる者は、定めて不退(ふたい)の位(くらい)に登る。いわゆる覚徳とはこれ迦葉仏なり。有徳(うとく)とはすなわち釈迦文(しやかもん)なり。法華・涅槃の経教は、一代五時の肝心、《八万法蔵の眼目(がんもく)》なり。その禁(いましめ)実に重し。誰か帰仰(きごう)せざらんや。しかるに謗法(ほんぼう)の族(やから)、正道(しようどう)の人を忘れ、剰(あまつさ)え法然の選択(せんちやく)に依つて、いよいよ愚痴(ぐち)の盲瞽(もうこ)を増す。ここをもつて、或(あるい)は彼(か)の遺体を忍びて木画(もくえ)の像に露(あら)わし、或はその妄説を信じて莠言(ゆうげん)の模(かたぎ)を彫(え)り、これを海内(かいだい)に弘め、これを掛外(かくがい)に円(もてあそ)ぶ。仰ぐところはすなわちその家風、施(ほどこ)すところはすなわちその門弟なり。しかる間、或は釈迦(しやか)の手指(しゆし)を切りて弥陀(みだ)の印相(いんぞう)を結び、或は東方如来の鴈宇(がんう)を改めて西土(さいど)教主の鵝王(がおう)を居(す)え、或は四百余回の如法経(によほうきよう)を止(とど)めて西方浄土の《浄土の》三部経となし、或は天台大師の講を停(とど)めて善導の講となす。かくのごとき群類(ぐんるい)、それ誠に尽し難(がた)し。これ破仏にあらずや、これ破法にあらずや、これ破僧にあらずや。《これ亡国の因縁にあらずや》。この邪義はすなわち選択(せんちやく)によるなり。ああ悲しいかな、如来誠諦(じようたい)の禁言(きんげん)に背(そむ)くこと。哀れなるかな、愚侶(ぐりよ)迷惑の麁語(そご)に随うこと。早く天下の静謐(せいひつ)を思わば、すべからく国中(こくちゆう)の謗法を断つべし。


客の曰く、もし謗法の輩(ともがら)を断じ、もし仏禁(ぶつきん)の違(い)を絶(た)たんには、彼(か)の経文のごとく、斬罪に行うべきか。もししからば、殺害相(せつがいあい)加え、罪業何(ざいごういか)んがせんや。
すなわち大集経(だいしつきよう)に云く、「頭(こうべ)を剃(そ)り袈裟(けさ)を著(ちやく)せば、持戒(じかい)及び毀戒(きかい)をも、天人彼(てんにんかれ)を供養すべし。すなわちこれ我れを供養するなり。彼(かれ)はこれ我が子なり。もし彼を岐打(だちよう)することあれば、すなわちこれ我が子を打つなり。もし彼を罵辱(めにく)せば、すなわちこれ我れを毀辱するなり」と。
《仁王(にんのう)経に云く、「大王、法の末世(まつせ)の時、乃至(ないし)、非法非律にして比丘を応縛(けいばく)すること、獄囚(ごくしゆう)の法のごとくす。乃至、諸の小国の王、自(みずか)らこの罪をなせば、破国の因縁身に自らこれを受けん」と。
また大集経(だいしつきよう)に云く、「仏の言(のたまわ)く、大梵(だいぼん)、我れ今汝がために且(しばら)く略してこれを説かん。もし人有りて万億の仏の所に於て、その身の血を出さん。意(こころ)において云何(いかん)。この人の罪を得ること寧(むし)ろ多しとせんやいなや。大梵王言(だいぼんのうもうさ)く、もし人ただ一仏(いちぶつ)の身の血を出さんも、無間(むけん)の罪を得んことなお多く無量にして算数(さんじゆ)すべからず、阿鼻大地獄の中に堕(だ)す。いかにいわんや、つぶさに万億の諸仏の身の血を出(いだ)さん者をや。終(つい)によく広く彼(か)の人の罪業の果報を説くものあることなけん。ただ如来をば除きたてまつる。仏言(のたまわ)く、大梵、もし我がために鬚髪(しゆほつ)を剃除(ていじよ)し、袈裟を著して、片ときも禁戒(きんかい)を受けず、受けてしかも犯す者を、悩乱し罵辱(めにく)し打縛(ちようばく)することあらば、罪を得ること彼よりも多し」と。
また云く、「刹利国王、及び諸の事を断ずる者、乃至(ないし)、我が法の中において出家する者も、大殺生(だいせつしよう)・大偸盗(だいちゆうとう)・大非梵行(だいひぼんぎよう)・大妄語(だいもうご)及び余(よ)の不善をなすとも、かくのごとき等の類(るい)、乃至、もしは鞭打(べんちよう)するは理の応ぜず、また口業(くごう)に罵辱(めにく)すべからず、一切その身に罪を加うべからず。もし故(ことさら)に法に違せば、乃至、必定(ひつじよう)して阿鼻地獄(あびじごく)に帰趣(きしゆ)せん」と。
また云く、「当来(とうらい)の世に悪の衆生(しゆじよう)ありて、三宝の中において少(すこし)く善業をなし、もしは布施を行じ、もしはまた戒を持(たも)ち、諸の禅定(ぜんじよう)を修せん。そのかくのごとき少しばかりの善根をもつて諸の国王となり、愚痴無智(ぐちむち)にして、慙愧(ざんき)あることなく、隠慢熾盛(きようまんしじよう)にして慈愍(じみん)あることなく、後世(ごせ)の怖畏すべき事を観ぜず。彼等我が諸の所有(しよう)の声聞(しようもん)の弟子を悩乱し打縛罵辱(ちようばくめにく)して、乃至、阿鼻(あび)に堕在(だざい)せん」等云云。》
料(はか)り知んぬ、善悪を論ぜず、是非を択ぶことなく、僧侶たらんにおいては供養を展(の)ぶべし。何ぞその子を打辱(ちようにく)して、忝(かたじけ)なくもその父を悲哀せしめん。彼(か)の竹杖(ちくじよう)の目連尊者(もくれんそんじや)を害せしや、永く無間(むけん)の底に沈み、提婆達多(だいばだつた)の蓮華比丘尼を殺せしや、久しく阿鼻の凹(ほのお)に咽(むせ)ぶ。先証(せんしよう)これ明かなり、後昆(こうこん)最も恐れあり。謗法を誡むるに似て、すでに禁言(きんげん)を破す。この事(じ)信じ難し、如何(いかん)が意(こころ)を得ん。

主人の曰(いわ)く、客、明かに経文を見て、なおこの言(ことば)をなす。心の及ばざるか、理の通ぜざるか。全く仏子を禁(いまし)むるにあらず。ただ偏(ひとえ)に謗法を悪(にく)むなり。《汝が上(かみ)に引くところの経文は、専ら持戒(じかい)の正見(しようけん)、破戒(はかい)・無戒の正見の者なり。今悪(にく)むところは持戒の邪見・破戒の破見・無戒の悪見の者なり。》夫(そ)れ釈迦(しやか)の以前の仏教はその罪を斬るといえども、能仁(のうにん)《忍》の以後の経説はすなわちその施を止(とど)む。《これまた一途(いちず)なり。月氏国(がつしこく)の戒日(かいにち)大王は聖人(せいじん)なり、その上首(じようしゆ)を罰して五天の余党を誡(いまし)む。尸那国(しなこく)の宣宗皇帝(せんそうこうてい)は賢王(けんのう)なり。道士一十二人を誅(ちゆう)して九州の仏敵を止む。彼(かれ)は外道なり、道士なり、その罪これ軽し。これは内道なり、仏弟子なり、その罪最も重し。速(すみや)かに重科(じゆうか)に行え。》しかればすなわち、四海万邦(しかいばんぽう)、一切の四衆、その悪に施(ほどこ)さず、皆この善に帰せば、何(いか)なる難か並び起り、何(いか)なる災(わざわい)か競(きそ)い来(きた)らん。


客すなわち席を避(さ)け、襟を刷(つくろ)いて曰く、仏教これ区(まちまち)にして、旨趣窮(ししゆきわ)め難(がた)く、不審多端(ふしんたたん)にして、理非明かならず。ただし法然聖人の選択は現在なり。諸仏・諸経《・法華経の教主釈尊》・諸菩薩・諸天《・天照太神・正八幡》等をもつて、捨閉閣賀(しやへいかくほう)《の悪言(あくげん)》に載(の)す。その文顕然なり。ここによつて、聖人(せいじん)国を去り、善神所を捨て、天下飢渇(きかつ)し、世上疫病(せじようえきびよう)す《等》。今(いま)主人、広く経文を引いて、明かに理非を示す。故に妄執(もうしゆう)すでに翻(ひるがえ)り、耳目しばしば朗(あきら)かなり。所詮、国土泰平、天下安穏は、一人(いちじん)より万民に至るまで、好(この)むところなり。楽(ねが)うところなり。早く一闡提(いつせんだい)の施(せ)を止めて《謗法の根を切り》、永く衆(しゆ)の僧尼の供(く)を致して《智者の足を頂き》、仏海の白浪(はくろう)を収め、法山《宝山》の緑林(りよくりん)を截(き)らば、世は羲農(ぎのう)の世となり、国は唐虞(とうぐ)の国とならん。しかして後、法水(ほつすい)の浅深(せんじん)《顕密の浅深》を斟酌(しんしやく)し、《真言・法華の勝劣を分別し》、仏家(ぶつけ)の棟梁(とうりよう)を崇重(そうじゆう)せん《一乗の元意(がんい)を開発せん》。

主人悦(よろこ)んで曰(いわ)く、鳩化(か)して鷹(たか)となり、雀変じて蛤となる。悦(よろこ)ばしいかな、汝、蘭室(らんしつ)の友に交りて、麻畝(まほ)の性(せい)となる。誠にその難を顧みて、専らこの言(ことば)を信ぜば、風和(やわら)ぎ浪静かにして、不日(ふじつ)に豊年ならんのみ。ただし人の心は時に随つて移り、物の性は境(きよう)によつて改まる。譬えば、なお水中の月の波に動き、陳前(じんぜん)の軍(いくさ)の剣(つるぎ)に靡(なび)くがごとし、汝、当座は信ずといえども、後(のち)定めて永く忘れん。もし先(ま)ず国土を安んじて、現当を祈らんと欲せば、速かに情慮(じようりよ)を廻(めぐ)らし、刊(いそ)ぎて対治を加えよ。
所以(ゆえ)は何(いか)ん。薬師経の七難(しちなん)の内、五難忽(たちまち)に起り、二難なお残せり。いわゆる他国侵逼(たこくしんぴつ)の難・自界叛逆(じかいほんぎやく)の難なり。大集経(だいしつきよう)の三災の内、二災早く顕れ、一災いまだ起らず、いわゆる兵革の災なり。金光明経(こんこうみようきよう)の内、種種の災禍(さいか)一一に起るといえども、他方の怨賊(おんぞく)国内を侵掠(りやく)する、この災いまだ露(あら)われず、この難いまだ来(きた)らず。仁王(にんのう)経の七難の内、六難今盛(さかん)にして、一難いまだ現ぜず。いわゆる四方の賊来りて国を侵(おか)すの難なり。「しかのみならず、国土乱れん時は先(ま)ず鬼神(きじん)乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る」と《云云》。今この文について、具(つぶさ)に事(こと)の情(こころ)を案ずるに、百鬼早く乱れ、万民多く亡ぶ。先難(せんなん)これ明かなり、後災(こうさい)何ぞ疑わん。もし残るところの難《二難》、悪法の科(とが)によつて並び起り、競い来らば、その時何(いか)んがせんや。帝王は国家を基(もと)として天下を治め、人臣(じんしん)は田園を領して世上(せじよう)を保つ。しかるに他方の賊来りてその国を侵逼(しんぴつ)し《我が国を侵(おか)し》、自界叛逆してその地《この地》を掠領(りやくりよう)せば、あに驚かざらんや、あに騒がざらんや。国を失い家を滅(ほろぼ)せば、何(いず)れの所にか世を蔚(のが)れん。汝すべからく一身の安謂(あんど)を思わば、先(ま)ず四表の静謐(せいひつ)を祷(いの)るべきものか。
なかんずく、人の世にあるや、各後生(おのおのごしよう)を恐る。ここをもつて或(あるい)は邪教を信じ、或は謗法(ほうぼう)を貴(たつと)ぶ。各(おのおの)是非に迷うことを悪(にく)むといえども、しかもなお仏法に帰(き)することを哀れむ。何ぞ同じく信心の力をもつて、妄(みだり)に邪義(じやぎ)の詞(ことば)を宗(とうと)ばんや。もし執心翻(しゆうしんひるがえ)らず、また曲意(きよくい)なお存せば、早く有為(うい)の郷(さと)を辞して、必ず無間(むけん)の獄(ひとや)に堕(お)ちなん。
所以は何(いか)ん。《所以(ゆえ)に、》大集(だいしつ)経に云く、「もし国王ありて、無量世において施(せ)・戒(かい)・慧(え)を修(しゆ)するとも、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、かくのごとく種(う)うるところの無量の善根、悉く皆滅失し、乃至、その王久しからずしてまさに重病に遇(あ)い、寿終(じゆじゆう)の後、大地獄に生ずべし。王のごとく夫人(ぶにん)・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官もまたかくのごとくならん」と。
仁王(にんのう)経に云(いわ)く、「人、仏教を壊(やぶ)らば、また孝子なく、六親不和にして天神《天竜》も祐(たす)けず、疾疫・悪鬼、日(ひび)に来つて侵害し、災怪首尾(さいけしゆび)し、連禍縦横(れんかじゆうおう)し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。もし出(い)でて人とならば、兵奴(ひようぬ)の果報(かほう)ならん。響のごとく影のごとく、人の夜書(しよ)するに火は滅すれども字は存するがごとく、三界の果報もまたかくのごとし」と。
《大品(だいぼん)経に云く、「破法の業因縁(ごういんねん)集まるが故に、無量百千万億歳、大地獄の中に堕(だ)せん。この破法人(はほうにん)の輩(ともがら)、一大地獄より一大地獄に至り、もし火劫(かこう)起らん時は、他方の大地獄の中に至り、生じて彼の間にあり、一大地獄より一大地獄に至らん。乃至、かくのごとく十方に遍(へん)せん。乃至、重罪転(うた)た薄く、或は人身(にんしん)を得ば、盲人(もうにん)の家に生れ、旃陀羅(せんだら)の家に生れ、厠(かわや)を除(はら)い死人を担(にな)う、種種の下賤(げせん)の家に生れん。もしは無眼(むげん)、もしは一眼(いちげん)・もしは眼瞎(がんかつ)・無舌(むぜつ)・無耳(むに)・無手(むしゆ)ならん」と。
大集(だいしつ)経に云く、「大王、当来の世において、もし刹利(せつり)・婆羅門(ばらもん)・窺舎(びしや)・首陀(しゆだ)あり、乃至、他の施(ほどこ)すところを奪わば、しかも彼(か)の愚人(ぐにん)現身の中において二十種の大悪果報を得ん。何者か二十なる。一には諸天善神悉く遠離(おんり)せん。四には怨憎悪人(おんぞうあくにん)同じく共に聚会(しゆえ)せん。六には心狂痴乱(しんきようちらん)し、恒に暴遶(ぼうき)多からん。十一には所愛の人悉く皆離別せん。十五には所有(しよう)の財物(ざいもつ)五家(け)に分散せん。十六には常に重病に遇(あ)わん。二十には常に糞穢(ふんね)に処し、乃至命終(みようじゆう)して、命終の後(のち)阿鼻地獄に堕せん」と。
また云く、「曠野無水(こうやむすい)の処に居在(こざい)して、生じてはすなわち眼(まなこ)なく、また手足なけん。四方の熱風来りてその身に触れ、形体楚毒(ぎようたいそどく)なお剣(つるぎ)もて切るがごとく、宛転(おんでん)して地にありて、苦悩を受く。かくのごとく百千種の苦あらん。しかして後(のち)に命終して大海の中に生れ、宍揣(にくし)の身を受く。その形(かたち)長大にして百由旬(ゆじゆん)に満(み)たん。しかも彼(か)の罪人所居(しよこ)の処は、その身の外面一由旬において、中に満(み)てる熱水(ねつすい)しかも融銅(ゆうどう)のごとく、無量百千歳を経(へ)て飛禽走獣(ひきんそうじゆう)競い来りてこれを食(は)まん。乃至、その罪漸く薄く、出(い)でて人となることを得ば、無仏(むぶつ)の国、五濁(ごじよく)の刹(くに)の中に生ぜん。生るるよりして盲(めしい)なり。諸根具せず、身形(しんぎよう)醜悪にして、人見ることを喜ばず」と。
六波羅蜜経(ろくはらみつきよう)に云く、「今地獄にありて現に衆(もろもろ)の苦を受け、十三の火の纒雁(てんによう)するところとなる。二の火凹(かえん)有りて足より入りて頂に徹して出(い)ず。また二凹あり。頂より入り足に通じて出ず。また二凹あり。背より入りて胸より出ず。また二凹あり。胸より入りて背より出ず。また二凹あり。左の脇より入り右の脇を穿(うが)ちて出ず。また二凹あり。右の脇より入り左の脇を穿ちて出ず。また一凹あり。首より纒(まと)い下(くだ)りて足に至る。しかるにこの地獄の諸の衆生の身、その形兇弱(なんじやく)にして熟蘇(じゆくそ)のごとし。彼の衆火(しゆか)に交絡焚熱(きようらくふんねつ)せらる。その地獄の火の氈華(じようか)を焼くがごとく、また余燼(よじん)なし」と。》
法華経梧《妙法蓮華経》第二に云く、「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば、乃至《すなわち一切世間の仏種を断ぜん。或はまた顰蹙(ひんじゅく)して疑惑を懐(いだ)き、乃至、経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉(きようせんぞうしつ)して結恨(けつこん)を懐(いだ)かん。この人の罪報を汝今また聴け。》その人命終(みようじゆう)して、何鼻獄に入らん。《一劫を具足して劫尽(こうつ)きなばまた生ぜん。かくのごとく展転して無数劫(むしゆこう)に至り、乃至、ここにおいて死し已(おわ)りてさらに顎身(もうしん)を受けん。その形(かたち)長大にして五百由旬ならん》」と。
また同第七巻不軽品《同第七》に云く、「《四衆(ししゆ)の中に瞋恚(しんに)を生じ、心不浄なる者ありて、悪口罵詈(あつくめり)して言く、この無智の比丘と。衆人或(しゆにんあるい)は杖木瓦石(じようもくがしやく)をもつてこれを打擲(ちようちやく)す》。千劫阿鼻地獄(せんごうあびじごく)において大苦悩を受く」と《已上》。
《大》涅槃経に云く、「善友(ぜんゆう)を遠離(おんり)し、正法(しようぼう)を聞かず、悪法に住する者は、この因縁の故に沈没(ちんもつ)して阿鼻地獄にありて、受くるところの身形縦横(しんぎようじゆうおう)八万四千由延ならん」と。
広く衆経(しゆきよう)を披(ひら)きたるに、専ら謗法(ほうぼう)を重しとす。悲しいかな《日本国》、皆正法(しようほう)の門を出(い)でて深く邪法(じやほう)《謗》の獄(ひとや)に入れり。愚かなり《上下万人(じようかばんにん)》、各悪教(おのおのあつきよう)の綱(つな)に懸(かか)りて鎮(とこし)えに謗教(ほうきよう)の網(あみ)に纒(まと)わる。この蒙霧(もうむ)の迷い、彼(か)の盛凹(じようえん)の底に沈む。あに《これ》愁(うれ)えざらんや、あに苦しからざらんや。

汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗(じつじよう)の一善(いちぜん)に帰(き)せよ。しかればすなわち三界(さんがい)は皆仏国なり。仏国それ衰えんや。十方(じつぽう)は悉く宝土(ほうど)なり。宝土何ぞ壊(やぶ)れんや。国に衰微なく、土は破壊(はえ)なくんば、身はこれ安全にして、心はこれ禅定ならん。この詞(ことば)、この言(ことば)《この言、この詞》、信ずべく崇(あが)むべし。

客の曰く、今生後生(こんじようごしよう)、誰(だれ)か慎まざらん。誰か恐れ《和せ》ざらん。この経文を披(ひら)きて、具(つぶさ)に仏語(ぶつご)を承(うけたまわ)るに、誹謗(ひほう)の科(とが)至つて重く、毀法(きほう)の罪誠に深し。我一仏(われいちぶつ)を信じて諸仏をなげう(なげう)ち、三部経《三経》を仰ぎて諸経を閣(さしお)きしは、これ私曲(しきよく)の思いにあらず、すなわち先達(せんだつ)の詞(ことば)に随いしなり。十方の諸人もまたかくのごとくなるべし。今世(こんぜ)には性心(しようしん)を労し、来生(らいしよう)には阿鼻に堕せんこと、文(もん)明かに埋詳(つまび)らかなり。疑うべからず。いよいよ貴公の慈誨(じかい)を仰ぎて、ますます愚客(ぐきやく)の痴心(ちしん)を開き、速かに対治(たいじ)を回(めぐ)らして、早く泰平を致し、先(ま)ず生前(せいぜん)を安んじ、さらに没後(もつご)を扶(たす)けん。ただ我(われ)信ずるのみにあらず、また他の誤りを誡(いまし)めんのみ。



① 広本の本文を《 》で括って示した。また広本のみに引用される経釈の文は、原文を一字下げて示した。
② 傍線部分は、JISコードの文字が無く、ひらがなで示した。
③ 「広本」はここに次の涅槃経の文を「又云く」として引用。
④ 広本はここに次の涅槃経の文を「大涅槃経に云く」として引用。




 

立正安国論について



※文中(定)とは、『昭和定本 日蓮大聖人御遺文』全四巻を指し、漢数字は項を示す。


 略して「安国論」ともいう。開目抄・本尊抄の両抄と共に三大部の一つ。

〔真蹟〕
三本の存在が確認される。一本は身延曽存本。『日乾目録』の「七箱之内第一」の項に「一、立正安国論、最初御送状一紙 御文云雖未入見参〇故最明寺入道殿進覧之 已上十行半。御正文二十紙 題号ト合シテ四百一行、奥云文応元年太歳庚申勘文」とあり。明治八年(一八七五)焼失。乾師写本が京都本満寺蔵。二本目は千葉県中山法華経寺所蔵本(国宝)。三六紙完、但し第二四紙欠。定遺二四番の本はこれを底本とす。本文に引続き「安国論奥書」(定四四三頁)が書き継がれ、最後に「文永六年太歳己巳十二月八日写之」とある。三本目は京都本圀寺所蔵本。定遺二七九番の『立正安国論(広本)』(定一四五五頁)はこれで、二四紙完、無記年、定遺は建治弘安の交とし、『対照録』は弘安元年(一二七八)に系年。なお此の外、真蹟断片一四紙が一〇箇所に散在。京都妙覚寺に一行断片が三紙、三行断片が一紙。新潟本成寺に一行断片一紙。千葉妙興寺に四行断片一紙。京都本圀寺に一行断片二紙。長崎本経寺に一行断片一紙。愛知聖運寺に一行断片一紙。京都本満寺に五行断片一紙。福井平等会寺に一行断片一紙。某氏所蔵一行断片一紙。千葉善勝寺に二行断片一紙である。これは身延曽存本の一部か『高祖年譜』が伝える真間山弘法寺旧蔵本の一部か不明。中山本に欠ける第二四紙に相当する部分は右の断片にはない。右断片はまとめて文永初期と係年されるから、文永五年(一二六八)一〇月一一日付『与宿屋入道書』の「重ねて諫状を捧ぐ」(定四二七頁)の辺に相当するか。


〔写本〕
直弟の写本の現存するものは、伊豆玉沢妙法華寺に日興写本、身延久遠寺に日向写本、千葉中山法華経寺に日高写本、静岡岡宮光長寺に日法写本、鎌倉妙本寺に三位日進写本がある。

〔系年〕
『安国論奥書』に「文応元年太歳庚申之を勘ふ(略)其後、文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して最明寺入道殿に献し奉れり」(定四四二-三頁)と。即ち文応元年(一二六〇)七月一六日、北条時頼へ進覧した本である。遺文中同様記述多し。稿了の日時に関しては遺文中に記述を見ないが『小湊誕生寺所蔵日祐筆目録』によると同年五月二二日である。

〔述作由来〕
『安国論奥書』に「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥之尅の大地震を見て之を勘ふ」とあり、述作の直接の動機が正嘉元年(一二五七)八月二三日の鎌倉大地震にあったことは遺文に明瞭である。『安国論御勘由来』によると災禍はその後も続き「同二年戊午八月一日大風。同三年己未大飢饉。正元元年己未大疫病。同二年庚申四季に亘って大疫已まず。萬民既に大半に超えて死を招き了ぬ」(定四二一頁)とある。その惨状は本論の冒頭に「近年より近日に至るまで天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢て一人も無し」(定二〇九頁)とある。鎌倉名越松葉谷の草庵にあってこの惨状を眼前に見た聖人は、かかる天変地異の興起の由来と対治の方法を仏典に求めて、翌正嘉二年正月、静岡県岩本実相寺の経蔵に入り、一切経を披閲したと伝えられる。聖人は一切経研究の結果、正元元年(一二五九)には『守護国家論』を著して法然の『選択本願念仏集』を教学的に論破し、更に念仏者追放の奏状・宣旨・御教書・院宣・下知状の五篇を集めて政治的方面から法然念仏を破斥した『念仏者追放宣状事』を著述、次いで翌正元二年二月上旬には安国論の草案ともいうべき『災難興起由来』『災難対治鈔』を述作して本論述作の準備とされた。かくて文応元年七月、本論を北条時頼に進覧したが、時頼は既に建長八年(一二五六)一一月二二日執権職を同族の長時に譲り、翌日自身建立の最明寺にて落飾し入道していたので「最明寺入道」と呼ばれる。名義は長時に譲ったが、実権は握っていた(『王代一覧』五)ので、本論を時頼に提出したのである。因に本論提出に対する幕府の反応は『下山御消息』によると「正嘉元年に書を一巻注したりしを、故最明寺の入道殿に奉る。御尋もなく御用もなかりしかば、國主の御用なき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん。念仏者並に檀那等、又さるべき人々にも同意したるとぞ聞へし。夜中に日蓮が小庵に数千人押寄て殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ。(略)日蓮が生たる不思議なりとて伊豆国へ流しぬ」(定一三三〇頁)と、本論の提出が松葉谷草庵の襲撃、伊豆流罪を招いたことを物語る。聖人の受難の生涯はすべて本論並びに立正安国の理想実現のための弘通が原因となっている。

〔略本と広本〕
『朝師御書見聞集』一に、「安国論広本略本の事、或る人云く、広本は草案の御本也。当時の略本は公界に出し玉へる御本也」とて本圀寺の広本は中山法華経寺の略本の草案であるという伝承を挙げている。広本は録内御書やその他の遺文集に収録されず、小川泰堂の『高祖遺文録』に始めて収録されたが、略本の草案と見なして略本の前に広本を掲載している。『縮遺』もこれにならう。広本の真蹟は初めの数紙は御真筆であるが、その後は弟子の筆跡であると鑑定されているのであるが、御真筆に引続いて書き継がれていることといい、また中山の『日祐目録』に「安国論一帖並に再治本一帖」と既に列名されていることといい、聖人在世中の成立であると見て差支えない。また『当家宗旨名目』下に「建治再治安国論御座也」といい『富士一跡門徒存知事』に「此に両本有り。一本は文応元年の御作、是れ最明寺殿と及び法光寺殿へ奏上の本也。一本は弘安年中身延山に於て、先本に文言を添へ玉ふ。而も別の旨趣無し、只建治の広本と云ふ」というに従い、且つは略本がただ法然浄土宗のみを破斥するに対して、広本は東密・台密にも折伏を及ぼそうとする気勢が見えるので、定遺は広本を略本の増補とみて建治の末に掲載する。

〔題意〕
立正安国の四字は一篇の内容と目的とを最も明確に表現した語である。また聖人の宗教観を最もよく表示した言葉である。立正とは正法を建立する。安国とは日本国ないし一閻浮提の万民を安穏にする。引いては一閻浮提を仏国土とするの意である。浄仏国土は菩薩たるものの必須の誓願である。しかるに法然房源空は菩提心を三福の一に数え、雑行として捨て、専ら称名を勧めて唯だ西方極楽往生を人生の目的とせよと説く。これ宗教の荷うべき責務に必ずしも沿うものでないことを表明する意味もあって、立正安国の題を立てられたに違いない。また法華経の理想は立正安国にある。故にこの題を選ばれたのである。また前年の著作に『守護国家論』があり、守護国家は一年の後に立正安国に改められた。守護国家は何によって国家を守護するか、題名には表れていない。故に題名を充実して立正安国とされたに違いない。例えば栄西の『興禅護国論』は興禅によって護国するのであるから、やや立正安国に近い題であるが、護国と安国とどちらがより宗教的用語であるか、いうまでもない。護国は伝統的用語ではあるが、護国ならば政治・軍事でも可能であるが、安国、精神的安穏はただ宗教のみが齎し得るところである。

〔大意〕
本論は鎌倉時代特有の漢文ではあるが、国諫の書として修辞に意を用い、四六駢儷体に擬した典雅流暢な文章である。旅客と主人との十番問答からなり、一番から五番までは、打続く天変地異飢饉疫病等の災難は主として法然の念仏の邪法の興盛に起因することを、経文を証拠として論断し、六番から八番までは、念仏の邪法を禁断することにより、これらの災害を防ぐことができる旨を経文を証拠に論証する。以上八番は既に興起した変災飢疫の由来を追求して邪法の流行によるものとし、もって念仏を破する破邪であるから、本論の序分である。九番は未起の災難たる他国侵逼難・自界叛逆難の続起、来世の堕地獄を予言して、法華への捨邪帰正を勧める。「汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国也。仏国其れ衰へん哉。十方は悉く宝土也。宝土何ぞ壊れん哉。国に衰微なく、土に破壊なくんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此言信ずべく崇むべし」(定二二六頁)というこの段の六四文字の結文により、本論の標題たる「立正安国」の名義は成立するのである。この段が本論の正宗分である。十番は客の領解と入信の告白と化他の誓約とを述べたもので、本論の流通分に当る。以上により本論の大部分は破邪に費され、正宗分の立正は僅かに第九番にすぎないことがわかるが、では何故に立正の内容を説明しなかったのか。これについて後半の『三沢抄』に「此国の国主我をもたもつべくば、真言師等にも召合せ給はずらむ。爾時まことの大事をば申べし」(定一四四七頁)とある。即ち国諫により、もし幕府が激発されて真言師や念仏者等との公場対決を計画するに至ったなら、その時に「まことの大事」つまり立正をも明らかに説き聞かせようと思い、この国諫書ではまだ明示を避けたわけである。 次に聖人の全生涯から本論の論旨を見て、二、三の問題点を列記すると、一に破邪の対象は、本論の文章上では明らかに法然の念仏に限られるが、のちに至って『法門可申鈔』には「故最明寺入道に向て、禅宗は天魔のそいなるべし。のちに勘文もてこれをつげしらしむ」(定四五五頁)、『故最明寺入道見参御書』には「日本国中為に旧寺の御帰依を捨てしむるは、天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時、之を申す。又立正安国論之を奉る。惣じて日本国中の禅宗・念仏宗」(定四五六頁)とあり、また『撰時抄』には「去し文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く、禅宗と念仏宗とを失い給ふべしと申させ給へ」(定一〇五三頁)等といわれる文面によると、本論進覧以前に宿谷入道乃至北条時頼に見参の砌、念仏宗と禅宗とを禁止せよと口頭にて進言されており、更に『阿仏房尼御前御返事』に「偽り愚かにしてせめざる時もあるべし。真言・天台宗等は法華誹謗の者、いたう呵責すべし。然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、まづまづさしをく事あるなり。立正安国論の如し。いふといはざるとの重罪免れ難し」(定一一〇九頁)、『本尊問答鈔』には奈良六宗・浄土宗・禅宗・真言宗が悪法である理由を詳しく論評してのち「此事日蓮独り勘へ知れる故に、仏法のため王法のため、諸経の要文を集めて一巻の書を造る。仍て故最明寺入道殿に奉る。立正安国論と名つけき。其書にくはしく申したれども愚人は知り難し」(定一五八二頁)とあるによると、愚人は知り難いが、大智慧の者には本論に真言・天台批判もあることがわかるといわれる。爾前無得道・諸宗無得道の宗義は既に正嘉・正元の頃に確立されたから、本論には一切諸宗に対する批判があっても当然であるが、その興盛ぶりを見て一に念仏宗を破斥の対象に選ばれた。また一切諸宗を批判すれば、論旨が乱れるから念仏宗だけを破斥された。ただ西方極楽往生だけを人生の目的とする念仏宗を批判すれば、立正安国の旗幟が最も鮮明になるわけである。しかし右のような聖意のもと『広本』が生れ、弘法・慈覚・智證等の名が諸処に挿入されて、天台・真言批判を文上にも盛り付けたのである。二に災難の見方の変遷。本論では正嘉の大地震以来の引続く災害の興起を邪法たる法然念仏の興盛の結果であると『金光明』『大集』『薬師』『仁王般若』の四経によって論断するが、この見方は次第に変遷して、文永五年(一二六八)の蒙古の来牒に際して発せられた『十一通御書』の中の『与平左衛門尉頼綱書』では「此事を申す日蓮をば(伊豆に)流罪せらる。争でか日月星宿罰を加へざらんや」(定四二八頁)とて、日蓮を迫害する故に災難ありとされる。これは〈邪法を信じる→正法を信じない→日蓮を迫害する〉という筋であるから、同類ではあるが、一層端的な表現である。そして本論第二答の中の「仁王経に云く(略)若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」(定二一一頁)にその片麟を見ることができよう。なお、この表現は以後生涯にわたって続く。次には佐渡以降は災難をもって上行菩薩出現の瑞相とされる。即ち佐渡よりの第一書たる『富木入道殿御返事』に「天台伝教は粗釈し給へども之を弘め残せる一大事の秘法を此国に初て之を弘む。日蓮豈に其人に非ずや。前相已に顕れぬ。去る正嘉の大地震は前代未聞の大瑞也」(定五一六頁)とあるを始め、その後生涯にわたってこの表現も続き、殊に『瑞相御書』はその説明に委曲を尽している。三に予言の的否。本論の第九答に「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速かに情慮を回らし、急ぎ(邪法)に対治を加へよ」、しからざれば未起の自叛・他逼の二難も必起なりと予言されるが、この予言は文永五年・同六年の蒙古牒状の到来により他逼の予言的中の近きを思わせ、佐渡配流第二年目の文永九年二月の北条時輔の反乱の勃発により自叛の予言が的中し、文永の役・弘安の役により他逼の予言が的中した。予言の的否は聖人の関心事の一であることは、文永七年一一月太田氏への『金吾殿御返事』に「抑も此法門之事、勘文の有無に依て弘まるべきか之れ弘まらざる歟、去年方々に申して候」(定四五八頁)と、法華弘通の成否を本論予言の的否にかける向きがあることにより明らかであり、従って的中すれば悦びの一面もあるわけで『種種御振舞御書』に文永五年の蒙古牒状到来の頃を顧みて「日蓮が去文応元年太歳庚申に勘たりし立正安国論すこしもたがわず符合しぬ。此書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず」(定九五九頁)と当時の悦びを披露している。文永の役に際しては『聖人知三世事』に「日蓮は一閻浮提第一の聖人也」(定八四三頁)といわれる。聖人とは未萌を知る人をいう。予言の的中がいかなる法華経的意味を有するかの最終的結論は『撰時抄』に三度の高名をあげてのち「此の三の大事は日蓮が申たるにはあらず、只偏に釈迦如来の御神我身に入かわせ給けるにや。我身ながらも悦び身にあまる。法華經の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(定一〇五四頁)といわれる。一念三千の法門により、教主釈尊が我が身中にましますことはわかるが、わかっただけでなく、ましますことを外に向って実証してみせたところに予言的中の意義があるというわけである。しかし的中を悦べば、他人には聖人が自叛・他逼あれかしと願っているように見えるから、例えば『報恩抄』に禅・念仏・真言の法師達が聖人を悪口する言葉を列記する中に「天下第一の大事日本国を失はんと咒そする法師なり」(定一二三八頁)というのがある。弟子信者の中にさえとかく聖人の心中を誤解する向きがあり、厳しく誡められたところである。《日朝『安国論見聞』、『日蓮聖人御遺文講義』一、『日蓮聖人御遺文全集講義』四》(浅井円道)












2016年03月30日