撰時抄

※文中(定)(定遺)とは、『昭和定本 日蓮大聖人御遺文』全四巻を指し、例(定一〇一項)の漢数字は項を(定一)の漢数字は巻数を示す。


〔真蹟〕
巻子本全五巻一〇七紙(第一巻第三・四紙、第三巻第一五紙欠)玉沢妙法華寺蔵(重要文化財)。第一巻第四紙、京都立本寺蔵。第三巻第一五紙初一行断、千葉妙善寺蔵。同次二行断、山梨妙了寺蔵。同六行断、山形大宝寺蔵。都合第一巻第三紙と第三巻六行断の前後とが欠如。なお身延の霊宝目録、中でも『日乾目録』には、第五箱の項に「一、撰時抄上 五十三紙 此内二紙端一行程切レリ、此初一紙ニ題号ヲ遊セリ」とあり、以後代々の目録に載録されている故、玉沢本とは別に身延にも本抄の真蹟があったことがわかるが、明治八年焼失。この上巻は『御書和語式』によると「たて入の者のごとし」で終り、玉沢本第三巻第一四紙の中間までに当る。中山法華経寺の『常師目録』にも「御書箱」の項に「撰時抄上下二帖」とあり、富士日興の『富士一跡門徒存知事』にも「一、撰時抄一巻今開して上中下と為す(略)正本は日興上中二巻之在り、下巻に於ては日昭の許に之在り」とあるが、中山、富士ともに真蹟不現存。
〔系年〕真蹟には年次の記載なし。但し文中、三度の高名を述べる中の「第三去年四月八日平左衛門尉語云」(定一〇五三頁、真蹟第五巻第九紙)の第三去年の右側に「文永十一年」とあり、本書は文永一二年か建治元年(四月改元)の成立であることになるが、『和語式』によると本書古版本の奥書に「建治三年太歳丁丑六月十日」云云とあるというから、仮に六月とすれば建治元年(一二七五)に系けねばならぬ。即ち身延入山の翌年の成立である。

〔題号〕
真蹟第一紙に「撰時抄 釈子日蓮述」とあり、聖人の御自題である。最初の「撰」の字は撰者・撰述などと熟する故に「述べる」「作る」の意であり、選が選挙・選抜・選択などと熟して「えらぶ」の意であるのとは違う。従って題名は明らかに「時を述べる」の意に読まねばならぬが、撰と選とは古来混用されることがあり、日蓮聖人も混用した。例えば法然著『選択集』を『災難興起由来』第一紙・第六紙、『立正安国論』第一二紙、『安国論広本』第八紙等では「撰択集」と書してある。従って古来いわれるように「撰時」は「選時」の意であり「時を選ぶ」と読んだ方がよい。即ち法華経の広宣流布の時を選んで末法の初とすることを述べた書物である。ただし時義ばかりではなく、五義の他の教・機・国・師をも兼ね示す。行学院日朝の『撰時抄見聞』に「所詮、此御書は時節を大段とし、余の四義をも顕はしたまふと貝えたり」と。

〔述作由来〕
本書は五大部の一。六月の撰とすれば、聖人身延の沢の草庵に入居されて満一年の作であり、去年一〇月二〇日蒙古が敗退して八ヵ月後に当る。恐らく蒙古来ののち間もなくの起稿であろう。撰時を人と法に約すれば、所弘の法華経は撰時の大法であり、能弘の上行菩薩は撰時の師である。本書はこの時に当って法華経の末法広宣流布の必然性を明かし、また上行菩薩の応化、末法の大導師としての聖人の責任を明かした書である。

〔大意〕
本書を八章に分段することができる。そのうち初一章は序分、次六章は正宗分、後一章は流通分である。序分では、仏法の弘通は時に依らねばならぬことを示す。第一章、冒頭には「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」。その証拠に釈尊は初め寂滅道場で華厳経を説かれる時、一切の大菩薩達が集会したのに、二乗作仏・久遠実成を説かせ玉はず。方便品に云く「説時未至故」と。法華の砌には悪人の代表たる阿闍世大王・提婆も座に列なったが、一念三千を説かれた。方便品に云く「今正是其時 決定説大乗」と。第二章、問、非機に大法を授ければ、誹謗の基ではないか。故に譬喩品に「無智人中莫説此経」と。答、不軽菩薩は非機に大法を授けて迫害を受けたが、得益を与えた。「せんずるところ機にはよらず、時いたらざればいかにもとかせ給はぬにや」と。これ『教機時国鈔』以来の一貫した主張である。

 本論(定一〇〇五頁九行目より)では本化菩薩の末法利益を明かす。第一章は第五五百歳に智人出世して妙法が広布する経過を説く。問、いかなる時に法華経を説くや。答、我等凡夫は時を知り得ない故に「仏眼をかつて時機をかんがへよ、仏日を用て国土をてらせ」と。仏眼・仏日とは仏の御教示を示す。仏の御教示とは『大集経』の五五百歳説である。これに対する人々の解釈は様々であるが、浄土宗の法然によると、現在日本国に流布する天台・真言・律等の諸経諸宗は正像二千年の白法にして、末法には無益。これらの白法隠没の次には「弥陀称名の一行ばかり大白法として出現すべし」と。日蓮が此等の悪義を難破したのは既に昔のこと、第五の五百歳の闘諍言訟白法隠没の時とは今現在であり、この時は「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の(略)広宣流布せさせ給べきなり」。その証拠に薬王品には「我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶」とある。その時の流布の経過は「其時に智人一人出現せん」、其人を悪鬼入其身の僧等が迫害すれば、釈迦・多宝・十方諸仏は地涌菩薩に、地涌菩薩は梵天帝釈日月等に仰せつけて天変地夭を起さしめ、国主等なおも智人の諫めを用いずば隣国に仰せつけて此国を攻めさせ「前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし」。すると一切衆生は国を惜しみ身を惜しんで、日頃「にくみつる一の小僧」を信ずるに至り、一同に南無妙法蓮華経と唱えるに至る。天台妙楽伝教にもこの末法を恋うる言あり。故に「正像二千年の大王よりも、後世ををもはん人々は、末法の今の民にてこそあるべけれ(略)彼の天台座主よりも南無妙法蓮華経と唱る癩人とはなるべし」。

 第二章は五箇五百歳の仏讖に則って三国仏教史を示し、今末法導師たる上行菩薩は自身なるとを示す(一〇一〇頁一行目より)。問、機と時と付属がなければ法華を説かざる所以を詳く聞きたい。答、仏滅後一〇〇年は迦葉・阿難等付法蔵の五人が唯だ小乗経を弘め、その後の四〇〇年は次の四・五人が小乗経を面とし、大乗を少々説く。以上は解脱堅固。次の五〇〇年は馬鳴・龍樹・師子等の一〇余人が大乗をもって小乗を破したが、権実については不分明、以上禅定堅固。正法一〇〇〇年を過ぎ、像法に入って一五年目に仏法漢土に入る、初め一〇〇年間は道士と仏法との諍論、魏・晋・宋・斉・梁の五代は南三北七が各々自義に辺執したが、大綱は華厳第一・涅槃第二・法華第三。第五〇〇年目に天台大師智宮出現し、南三北七の義を破って法華第一・涅槃第二・華厳第三とした。以上第三読誦多聞堅固。像法の後半の五〇〇歳は唐の太宗の代に玄奘が法相宗を渡し、深密・勝鬘経等によって三乗真実・一乗方便を主張。二代高宗の后則天武后の代には法蔵出現して華厳第一・法華第二・涅槃第三と判ず。四代玄宗の代には善無畏・金剛智・不空の三三蔵が大日・金剛頂・蘇悉地の三経を渡して真言宗を立て、理同事勝を主張。以上三宗は皆天台宗を攻撃し、法華経の実義は隠没した。以上像法の後の五〇〇歳の中の前二〇〇年。一方、像法に入って四〇〇余年に百済国より日本に仏法伝来。欽明天皇の御宇にして漢土の梁末・陳初に当る。三一代用明の太子聖徳太子仏法を興隆し、法華・浄名・勝鬘の三経を鎮国の法とす。以後次第に奈良六宗渡来、第五〇代桓武帝の代、像法八○○年に当って伝教大師最澄出現して、天皇の御前にて六宗を破し(高雄講経)、その上、法華円頓戒を叡山に建立した。「仏滅後一千八百余年が間、身毒・尸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる」。ただし天台真言の勝劣は「公場にして勝負なかりけるゆへ」大師滅後日本仏教は真言第一となった。以上多造塔寺堅固。今は末法に入って二〇〇余歳、闘諍言訟白法隠没の時なり。伝聞すれば、漢土も高麗・新羅・百済も蒙古の占領下にあるという。闘諍堅固の仏語虚しからず。従って白法隠没の次には「法華経の大白法の日本国竝に一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」。法華経で釈尊が無虚妄の舌を出し、後五百歳に一切仏法滅する時「上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせん」といわれた故。無虚妄なら、仏使として妙法五字を流布する者を迫害する日本国の王臣萬民が安穏なはずはない。「日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり」。これに仇をなせば「日本国の一切衆生兵難に値べし」と次の弘安の蒙古来を予言する。経文によれば、法華行者に仇をなす者は頭破作七分すとあるが、今までその現罰がなかったのは道理である。これらは浅罰、正嘉大地震・文永大彗星こそ未曽有の大罰であった。南無妙法蓮華経を一切衆生に勧めた人は曽て一人もなし。この徳は四海に肩を並べる人なし。

 第三章は龍樹・天台・伝教の法華弘通を細検して、正像未弘の大法有るを明かす(定一〇二〇頁二行目より)。疑、印度では法華弘通の者五〇余家(『法華伝記』)、漢土では天台大師、日本では伝教大師が法華経を既に広宣流布したではないか。答、第一に末法より正像の方が上根上機の故に、正像にこそ法華の広宣流布があったと考えるのは誤り。「機に随て法を説くと申は大なる僻見なり」。第二に印度の龍樹所造の論は三〇万偈に及ぶが、その中心は『中論』、その中心は「因縁所生法」等の四句の三諦偈であるが、この偈は円融三諦ではない。『菩提心論』も龍樹造といわれるが、実は「不空三蔵の私につくりて候か」。「唯真言法中即身成仏」とて法華の即身成仏を否定している。『法華観智儀軌』を見れば明らかなように、不空には誤り多し。訳者として信用できるのは羅什三蔵のみである。第三に漢土の天台大師は法華の心を玄・文二〇巻に書き尽し、止観一〇巻には一念三千を説いた。故に三論の吉蔵、律の道宣、華厳の法蔵、真言の含光らは皆大師に帰伏した。「法華経の広宣流布にはにたれども、いまだ円頓の戒壇を立てられず」と。第四に日本の伝教大師は天台の円定円慧に円戒を建立して「仏法の人をすべて一法となせる事は龍樹天親にもこえ、南岳天台にもすぐれ」たり。しかし「天台伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深秘の正法」あり。

 第四章は末法秘法の流布に障害となる三悪法を示す(定一〇二九頁八行目より)。問、未曽有の秘法とは何ぞ。まず名、次に義を聞かせてくれ。答、この法門には三宗あって障害す。一に浄土宗は、曇鸞は難行道・易行道、道綽は聖道門・浄土門、善導は雑行・正行の分別を立てたが、法然はこれにより日本の既成の諸宗を上根上智の機のための難行・聖道・雑行として捨閉閣抛し、浄土の一門を弘めた。叡山の恵心僧都の『往生要集』、永観の『往生十因』も同腹である。かくて「此五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる」。その結果、朝廷は「関東にほろぼされぬ」。二に禅宗は「たっとげなる気色」に見えるが、不孝者・無礼なる臣・学文にものうき若法師・遊女などの「ものぐるわしき本性に叶へる邪法」にして、彼等は皆持斎になり、百姓をくう蝗虫となって天変地異を惹起した。三に「真言宗と申は上の二のわざわひにはにるべくもなき大僻見なり」。第一にその起源は、善無畏・金剛智・不空が大日・金剛頂・蘇悉地の三経を漢土に渡したことに始まる。その説相は、極理は会二破二の一乗、事相は印真言のみ、天台宗の蔵通二教を面とするに過ぎぬ故、善無畏は謀略をめぐらして、天台宗の一行禅師を語らって『大日経疏』を作らせ、大日法華の両経は意密においては一、身語両密において真言勝ると書かせた。第二に日本の伝教大師は入唐して真言宗をも兼伝したが「敵多くしては戒場の一事成じがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん」、法華真言の勝劣は弟子等にも詳しくは示さなかった。「但し依憑集と申す一巻の秘書あり」、その序に真言宗の誑惑を示す一筆がある。第三に弘法大師は伝教大師と共に入唐して青竜寺の慧果から真言宗を学び、帰朝して第一真言・第二華厳・第三法華と立てた。しかし真言の事相は習ったが、教相には暗かった。例えば『二教論』に「震旦人師等諍盗醍醐」というが『六波羅蜜経』は唐の半ばの訳、その中の醍醐を隋の天台大師が盗める道理がない。また『秘蔵宝鑰』に法華等の諸経を戯論の法というが「大日経・金剛頂経等にたしかなる経文をいだされよ」と。実は偽論の『釈摩訶衍論』の語である。これに便りを得て覚鑁は『舎利講式』に法華等の顕乗四法は弘法の牛飼・履物取りにも及ばずという。今の世の真言・禅宗は月氏の大慢婆羅門の如し、浄土宗は漢土の三階禅師の如し。これ等の三悪法を批判することは「すでに久しくなり候へば(略)申さば信ずる人もやありなん」。第四に以上よりも百千万倍の最大の悪法あり。天台密教である。第三代慈覚大師円仁は伝教大師の弟子なれど、天下万民皆「伝教大師には勝れてをはします人」と思っている。それが真言勝法華劣と判定したので叡山三千の大衆も日本国中の学者も一同に信伏。「されば東寺第一のかたうど」なり。例せば五大院安然が『教時諍論』に第一真言・第二禅・第三天台と判じて禅宗ひろまり、恵心が『往生要集』を書いて法然浄土宗が興盛したのと同類である。伝教大師の法華最勝の心は第一代座主義真・第二代円澄まで続いた。第三代円仁は一〇年入唐して顕密を学び、真言最勝と知って帰朝、叡山東塔の止観院の西に総持院を建て本尊を金剛界大日とし、その前で『金剛頂経疏』七巻、『蘇悉地経疏』七巻を作り、『大日経疏』にならって理同事勝の教判を立て、仏前で七日七夜祈請して夢に日輪を射て、吉夢と判じ、二疏を世に流布したという。しかし日輪を射た夢は吉夢ではなく、亡国の夢である。日本国は日の国、天照大神は日天子であるから。亡国の現証あり、承久の乱の時、叡山に調伏を依頼した朝廷側は敗れ、調伏された北条義時は勝った、祈祷した叡山三千人も鎌倉に攻め落された。さて今は鎌倉の世となり、京の謗法の真言師等関東に下向して武士の心に取入り、諸寺諸山の別当となって亡国の悪法をもって国土安穏を祈っている。かえって亡国・亡身は必定であるから、その悲しさに身命を堵して諫める者に仇をなす故に「天の計らいにて」天変地異起り、自叛他逼あり。しかし「権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の流布せんずる序にあらずや」。流布に従事する「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」と。本章における三宗批判のうち殊に真言密教批判は厳しく、また従来にない鋭さであるところから、優陀那院日輝は「立正安国論は是れ破立の初、此鈔は是れ正しく破立の終なり」(『撰時鈔略要』)という。なお安国論における予言の面の継承発展は次章にあり。

 第五章は正嘉・文永の天変地異は上行菩薩出現の瑞相であり、自身が予言の聖者として深法を出すことを明かす(定一〇四八頁九行目より)。「今の大地震・大長星等は国主日蓮をにくみて、亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたうどせらるれば、天いからせ給ていださせ給ところの災難なり」。「日蓮は真言・禅宗・淨土等の元祖を三虫となづく。又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」。これらの謗法の根源を糺明するという「一閻浮提第一の大事を申ゆへに最第一の瑞相此にをこれれり」。現状のままの宗教情勢が今後も続くなら、再び他国侵逼難があるは必定。その時「各々声をつるべて南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経と唱え、掌を合せて、たすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや」。しかし「南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計りにてやあらんずらん」。余には過去に既に憂国の予言の実績がある。「余に三度のかうみやう(高名)あり」、一には文応元年七月一六日『立正安国論』奏上の時、宿谷入道に向って禅宗・念仏宗の信仰を止めよ、しからざれば自叛と他逼があるぞと。二には文永八年九月一二日の召捕のとき平左衛門尉に向って二難を予言。三には文永一一年四月八日同人に向って蒙古等は「よも今年はすごし候はじ」と。「此の三の大事は日蓮が申たるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神、我身に入かわせ給けるにや(略)法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」とは、事の一念三千の肝心は己心所具の教主釈尊であるが、釈尊が我身に住し給う証拠を外部に表現するところに事の事たる所以があることを示す文である。換言すれば「但国をたすけんがため、生国の恩をほうぜんと(して)申せしを」かえって咎めだてて散々に迫害したから、必ず自他の戦さ起るべしと、『大集経』五〇(引文あり)の経文に任せて申し出したまでであると。

 第六章は閻浮第一の智人と名乗るは慢煩悩に非ず、かえって大果報必得なるを明かす(定一〇五六頁三行目より)。「現に勝たるを勝たりという事は慢ににて大功徳となりけるか」。法華経は最在其上(薬王品)の経なる故に「法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて、而も一分の解なからん人々は」過去のいかなる尊者大聖よりも勝れているというのである。勧発品に「亦於現世得其福報」「当於今世得現果報」とあり「已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば、如来の金言は提婆が虚言に同じ」。されば汝らも「法華経のごとく身命もをしまず修行して、此度仏法を心みよ」と。

 流通分は、不惜身命とは呵責謗法なり、仏天の加護なくば遂行できぬ事を明かす(定一〇五九頁七行目より)。問、勧持品の「我不愛身命 但惜無上道」、『涅槃経』の「寧喪身命」とは、どんな事があるから身命を捨てることになるのか。答、伝教・弘法・慈覚・智証が渡海して求法し、玄奘三蔵が入竺して六度の身命に及んで経を渡した事を指すかと初心の頃は思っていたが、左にあらず、経文には「上に三類の敵人をあげて、彼等がのり、せめ、刀杖に及で身命をうばうとも我不愛身命、とみへたり」。三類の中では最強の敵は第三の「持戒有智の大僧なり」「かの人は王臣等御帰依あり、法華経の行者は貧道なるゆへに、国こぞってこれをいやしみ候はん時、不軽菩薩のごとく申しつをらば身命に及べし」。「此事は今の日蓮が身にあたれり」。しかし「霊山浄土教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身諸仏、地涌千界の菩薩等、梵釈日月四天等、冥に加し顕に助給はずは、一時一日も安穏なるべしや」と仏天の守護を感謝して終る。《日朝『撰時抄見聞』、『録内御書諸注釈』、日輝『撰時抄略要』、『日蓮聖人御遺文講義』四、山川智応『撰時抄講話』》(浅井円道)

2016年03月30日