※文中(定)(定遺)とは、『昭和定本 日蓮大聖人御遺文』全四巻を指し、例(定一〇一項)の漢数字は項を(定一)の漢数字は巻数を示す。
真蹟=
断片二行、山梨一瀬妙了寺蔵。二紙二七行、池上本門寺蔵。断片二行、高知要法寺蔵。断片二行、東京本通寺蔵。断片六行、京都本禅寺蔵。『日乾目録』によると四巻二九紙・表裏記載の真蹟が身延に曽存していたが、右の真蹟断片のうちの三片を含む分は日乾当時すでに闕失しており、結局、右の現存真蹟は身延より散逸したので、かえって明治八年(一八七五)の焼失を脱れ、現存し得たことになる。
写本=
かくて本抄の真蹟の全容を拝することはできぬが、幸い身延山二一世寂照院日乾による真蹟対照本が京都本満寺に現存し(写真版が本満寺より発行され、世に流布)、『縮冊遺文』・『定本遺文』はこれを底本として『高祖遺文録』所収本を訂正出版したものである。また富士大石寺一九世日舜の康安二年(一三六二)の写本を堀日亨が伝えるという。
系年=
書末に「建治二年太歳丙子七月二十一日」とあり、『撰時抄』撰述の翌年、身延入山二年目に当る。
宛名=
書末に「甲州波木井郷蓑歩の嶽より安房国東條郡清澄山淨顕房・義城房の本へ奉送す」、また『報恩抄送文』の宛名は「清澄御房」つまり清澄寺の住持たる淨顕房である。つまり清澄時代の聖人の法兄たる淨顕・義城の二人宛である。しかし常の御消息と違って「奉送」とあるから、二人に送り届けはしたが、捧げる相手は師の道善房の霊である。故に『送文』に「又故道善御房の御はか(墓)にて一遍よませさせ給」(定一二五一頁)とある。つまり道善房の霊魂に対する回向とするのが第一目的である。また「御まへ(前)と義城房と二人、此御房をよみてとして、嵩かもり(森)の頂にて二三遍」(同)とあるから、法兄二人への法門垂示とするのが第二目的である。この御房とは誰か、遺文中どこにも明示はないが、古来一様に佐渡公日向と称している。「此御房にあづけさせ給ひてつねに御聴聞候へ」(同)とあるから此御房は聖人弟子中でも秀でた学問僧でなければならず、また本抄の預り主でもあるとすれば、日向と見るのが最も妥当である。日向はやがて身延の法灯を継いだ人物であるから、本抄の真蹟が身延に伝えられたことも納得できるからである。
題号=
『日乾目録』に「初ニ“報恩抄 日蓮撰之”是マデハ半紙」(定二七四七頁)とあり、御自題であることがわかる。報恩は立正安国を標榜する聖人にとって、生涯を貫いた徳目の一つであると同時に、今は特に師匠道善房への師恩報酬のための抄物の意味であることはいうまでもない。
述作由来=
『送文』に「道善御房の御死去之由去る月粗承はり候」(定一二五〇頁)とあり、道善房の死亡年月は不明確である。伝承には同年三月一六日説(『本化別頭仏祖統紀』『別頭高祖伝』『高祖年譜』等)と同年六月一四日説(『御書略註』等)とがあるが、『送文』に「去月」とあること、本抄に「彼人の御死去ときくには、火にも入り、水にも沈み、はしり(走)たちてもゆひて」(定一二四〇頁)とある聖人の心情から考えて、三月一六日御死去とすれば本抄の七月二一日までは一三〇日余もあって、余りにも時間的間隔がありすぎる。六月一四日御死去とすれば『送文』の七月二六日まで四二日、これに身延から清澄までの日程を加えても、十分に四十九日忌に間に合うことになるから、六月一四日御死去とするのが妥当と思う。すると本抄は道善房死去の報に接して僅か一月ほどで作成されたわけで、恐らく夜を日についで精進されたに違いない。聖人自身清澄の葬儀に参列されなかった理由は『教行証御書』の「其の師にて候者は(略)甲斐の国の深山に閉籠らせ給ひて後は、何なる主上女院の御意たりと云へども、山の内を出て諸宗の学者に法門あるべからざる由仰せ候」(定一四八七頁)の文に明らかなように、身延不出の誓願あり、従って今回もまた「彼人の御死去ときくには、火にも入り、水にも沈み、はしり(走)たちてもゆひて、御はか(墓)をもたゝいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ、心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出つるならば、末へもとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず」(定一二四〇頁)、『送文』には「自身早早と参上し、此御房をもやがてつかはすべきにて候しが、自身は内心は存ぜずといへども、人目には遁世のやうに見えて候へば、なにとなく此山を出でず候」(定一二五〇頁)と、遁世の志を守って下山しなかったといわれる。かくて日向を遣わして墓前に回向せしめた『報恩抄』には、師の霊を弔って、抄末に「此功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経」(定一二四九頁)、また同じく淨顕・義淨二人に与えられた『華果成就御書』にも「日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべし」(定一五〇〇頁)といわれる。
大意=
『日乾目録』に「報恩抄 四巻 御筆ニテ」(定二七四七頁)とあるから、本抄はもと四巻であったが、写本の段階では二本ともに上下二巻とし、その切れ目は「去文永八年九月の十二日には頸を切らんとす」(定一二二二頁)までを上巻、以下を下巻としている。これは単に調巻の都合ばかりではなく、真蹟にも準拠している。真蹟はそれより六〇字後の「打斫」までが表書き、以下が裏書きとなっていたことが同じく『日乾目録』によりわかるからである。しかし写本の調巻ではまだ内容上から見て適当ではないから、『録内御書』・『高祖遺文録』はそれより約七行前の「謗法ならざる人はなし」(定一二二一頁末行)までを上巻、以下を下巻とした。すると上巻では過去の歴史を回顧して三国にわたる法華弘通史を述べ、下巻では末法今時の聖人の法華弘通を述べる、と截然としてくる。本抄を序正流通の三段に分配すれば、序分では報恩の重要性を述べ、正宗分では聖人が実践した報恩の道を述べ、流通分では聖人の広大なる慈悲と師道善房への回向が示される。まず序分では報恩の道は下は畜生から上は古の賢人に至るまで歩む人倫の大道であり、仏教を学ぶ者も実践しなければならぬ。しかしそのためには仏法を習い極め、出離の道を弁えた上で何が恩に報いる道かを判断しなければならぬ。時には父母・師匠の心にそわぬほどの覚悟もなければ真の報恩とはなり難いと。
正宗分
(定一一九三頁一行目より)は二段からなる。第一段は報恩のための呵責謗法の教義と実践、第二段は法華経の肝心と三時弘通の法の浅深を述べる。まず第一段では五項目について述べる。第一項は諸経の中から法華経を選出した経過を説く。報恩のため父母・師匠に背いて十宗を習うに、小乗の三宗をまず捨て、大乗の七宗を見ると、各々に皆自讃する。しかし最勝の経は唯だ一経のはずとて『涅槃経』の「依法不依人・依了義経不依不了義経」の遺誡を基本として、論師人師によらず、専ら経文によると、法華経こそ最勝であるとの結論に達したと。第二項はこの結論に対する疑難を破し、諸宗の元祖の誤判を謗法と断ず(定一一九六頁四行目より)。疑難とは漢土・日本に渡来した経典以外にも月氏・竜宮らには無尽の経々あり、その中には法華経より勝れた経があるのではないかというもので、これを破するに法師品の已今当の経文は十方三世諸仏の経々の中での法華第一の経文であるとする。また諸宗の元祖として列名された者は華厳宗の澄観、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証、三論の嘉祥、法相の慈恩であり、彼らを「諸仏の大怨敵」と貶す。第三項は天台・妙楽・伝教の可責謗法とその後の雑乱を示す(定一一九八頁九行目より)。日蓮これを知りながら申さなければ『涅槃経』の「寧喪身命」の諫暁に背くことになり、申せば世間おそろし。ところが法師品に「如来現在猶多怨嫉況滅度後」とある。如来現在の怨嫉とは仏が蒙った九横の大難であり、滅後の怨嫉とは正法の世では『付法蔵経』に列ねられた人々の受難、像法では前五百年中に漢土に天台大師智宮あり。当時、南三北七の十派があり、中でも南三の中の光宅寺法雲は出色の人で、梁の武帝の帰依を一身に集め、華厳第一・涅槃第二・法華第三を主張した。智宮は法雲死去まもなく出世し、法華第一・涅槃第二・華厳第三と立てたので、南北の諸師は蜂起したが、陳主が両者を面前で法論させ、智宮が南北の百余人の学者を砕破した有様を詳述する。智宮の死後は、唐の太宗のとき玄奘三蔵が法相宗を立てて一乗方便・五性各別を主張し、則天皇后のとき新訳華厳の訳出に力を得て法蔵が華厳宗を興し、玄宗のとき善無畏・金剛智・不空が真言三部経を渡して顕劣密勝を主張した。この三宗の興盛によって天台宗勢は地に堕ちたが、六祖妙薬大師湛然が智宮滅後二〇〇余年に出世し、三大部の註釈を造って三宗を攻め落した。一方、日本では奈良時代に六宗が渡来してのち、五〇代桓武天皇のときに伝教大師最澄出世し、華厳の法蔵の『起信論義記』を読んで天台宗を知り、鑑真将来の智宮の章疏を探し得て耽読し、生死の酔をさました。高雄講経にて六宗の碩徳一四人を破って承伏の謝表を取り、弟子とした。真言宗に関しては入唐前に玄臆・得清等伝来の『大日経疏』を見、また入唐して研究の結果『大日経疏』には理同事勝とあるが、実には法華経の方が勝ると知り、真言宗の名を削って天台宗の内に入れ、天台宗の傍依経とした。天台真言の勝劣は弟子にも分明には示さなかったが『依憑集』には正しくそのことが書き載せてある。伝教大師滅後、弘法大師空海は嵯峨天皇の師となって真言宗を開き、東寺を賜い、法華経は三重の劣にして戯論の法、釈尊は無明の辺域、天台大師は法門盗人とわめく。「伝教大師御存生ならば一言は出されべかりける事なり」。次に天台宗では三代座主慈覚大師円仁入唐帰朝して『大日経疏』の意によって『金剛頂経疏』七巻・『蘇悉地経疏』七巻を造って、法華・大日の勝劣を理同事勝と記した。この二書を弘通すべきか否かを知るために御本尊の前に疏一四巻を置いて祈請、五日目に日輪を射落した夢を見て吉夢と思い、二書を日本国に弘通した。五大座主智證大師円珍は七年間入唐して顕蜜両教を習って帰朝したが『大日経旨帰』には「法華尚ほ及ばず」、『授決集』には「真言禅門(略)是れ摂引門」、貞観八年(八六六)の勅宣には「二宗斉等」と法華真言の勝劣について三様のことをいう。「此等は皆自語相違といゐぬべし」と、この智證大師批判の的確さは本抄の特徴の一つである。一体、伝教大師には『依憑集』という「第一の密書」があって、ここに法華・真言の勝劣は明瞭に記してあるのだが、両大師はこれを見なかった。されば叡山の仏法は第二代の円澄までで終り、慈覚以降は釈迦多宝十方諸仏の怨敵となった。弘法の門人達も台密によって師意を補い「天台宗の人々絵像木像の開眼の仏事をねらはんがために、日本一同に真言宗にをちて、天台宗は一人もなきなり」(定一二一七頁)。かくて法華経の行者は月氏・漢土・日本に釈尊・天台大師・伝教大師の三人だけである。謗法の慈覚は「死去の後は墓なくてやみぬ」。智証の門家と慈覚の門家とは合戦ひまなく、互いに寺を焼き合って、智証の本尊の慈氏菩薩も慈覚の本尊の大講堂も焼けおちて「但(伝道大師の)中堂計りのこれり」(定一二二〇頁)。弘法の門家も本寺と伝法院と合戦ひまなく「日本国は慈覚・智証・弘法の流なり。一人として謗法ならざる人はなし」(定一二二一頁)と。以上、上巻。第四項は聖人の呵責謗法と受難を述べる。(定一二二二頁一行目より)。謗法の国の故に諸天善神は日本国を去り「但日蓮計り留まり居て告け示せば」(定一二二二頁)国主これを悪んで二度の流罪、一度は頸に及んだ。『最勝王経』『大集経』によると、そのために天変地異、文永九年(一二七二)二月の同士討、同一一年一〇月の蒙古襲来があったのだ。「謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやか」(定一二二三頁)であるが、今は「日蓮が大義」、謗法を強くせめる故に大梵天王らが「隣国の賢王の身に入かわりて其国をせむ」るのだ。では謗法とは何か。「法華経をよむ人の此経をば信ずるやうなれども諸経にても得道なる(成)とをもう」(定一二二五頁)ことであり「法華経をよみ讃歎する人々の中に無間地獄は多く有るなり」(定一二二六頁)例せば三論宗の嘉祥の如し。「嘉祥大師の法華玄(論)を見るに、いたう法華経を謗じたる疏にはあらず。但法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ。此が謗法の根本にて候か」(定一二二七頁)。善無畏も法華大日理同と述べたため、死して地獄におちた。『宋高僧伝』をみてみよ。金剛智も「無慚」な人で、玄宗の寵姫の蘇生を祈るために「身の代に殿上の二の女子七歳になりしを、薪につみこめて焼き殺」(定一二二九頁)した。不空は祈雨して大風ふきて内裏を吹き飛ばした。東寺第一の加賀法印の祈雨に大風が吹いたのは、この伝統による。弘法は守敏と祈雨を競って、天子が降らせた雨を奪い取って「我が雨」という。慈覚は日輪を射た夢は吉夢であると判じたが「我国は殊にいむ(忌)べきゆめなり」(定一二三〇頁)。ことに弘法には「誑乱其数多し」とて『心経秘鍵』の末文や『孔雀経音義』を引いて詳細にその誑惑ぶりを指摘する。かかる悪法に戦勝祈願を依頼したから、承久の乱では三上皇は義時に破れて流罪された。亡国の悪法に敵国降伏の祈祷を依頼するわが国の将来も危い。「此事、日本国の中に但日蓮一人計りしれり」(定一二三六頁)。そこで「ひとへにをもひ切りて申し始めしかば、案にたがはず」(定一二三七頁)、弘長元年(一二六一)の伊東流罪。「弥々菩提心強盛」に申せば「日本六十六箇国島二の中に、一日片時も何れの所にすむべきやうもなし」(同)。文永八年(一二七一)九月一二日は竜口にて斬首。まぬがれて佐渡流罪。「今日切る、あす切る、といひしほどに四箇年というに」(定一二三八頁)赦免されて、身延入山。「これはひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほう(報)ぜんがために、身をやぶり命をすつ」(定一二三九頁)るなり。第五項は恩師道善房の死去と聖人の回向(定一二三九頁六行目より)。日蓮が生涯に積んだこの功徳により「父母も故道善房の聖霊も扶かり給らん」。しかし不安もある。大覚世尊さえ子供の善星比丘を救いかねた。「自業自得のへんはすくひがたし」。道善房は「きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり」。地頭景信を恐れ、円智・実城のおどしを恐れて、いとしい弟子をも捨てた人である。しかし御死去と聞いて、万難を排してかけつけようと思ったが、遁世の身にて「まいるべきにあらず」(定一二四〇頁)と。
第二段、法華経の肝心と三時弘通の法の浅深(定一二四〇頁一二行目より)。問・法華経一部の肝心は何か。答・「如是我聞の上の妙法蓮華経の五字即一部八巻の肝心」なり。逢名の日本の二字に六六ヵ国の一切を摂めるが如し。諸経の題目もそれぞれその経の肝心であるが、諸経の題目には「二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏なし」(定一二四四頁)。故に「彼経々は妙法蓮華経の用を借ずば、皆いたづらのもの(徒物)なるべし」(定一二四四頁)。問・妙法五字が一切経の肝心なら、なぜ迦葉・阿難・馬鳴・龍樹・天台・伝教は妙法五字を弘めなかったのか。答・馬鳴・龍樹も天台も伝教もそれぞれ前代より深い法を弘めて、同時代の人々の激しい迫害を蒙ってきた。故に「内証は同じけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・龍樹等はすぐれ、馬鳴らよりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり。世末になれば、人の智はあさく、仏教はふかくなる事なり」(定一二四七-八頁)。問・それなら汝には天台・伝教も弘通しなかった正法があるというのか。答・三あり。一には「本門の教主釈尊を本尊とすべし」。「二には本門の戒壇」。三には「人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし」(定一二四八頁)
流通分
(定一二四八頁八行目より)。「此事いまだひろまらず」。しかし「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」(定一二四八頁)と未来広布の方策を語り、次に未来広布の仏の約束を示して、薬王品に「後五百歳中広宣流布」と。もしこの経文が虚妄になるならば釈迦多宝十方諸仏は無間地獄におちることになろうが、そういうことはあり得ない。「其義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり」(定一二四九)。「此功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経」(同)と。五大部の一。《『録内御書諸註釈書』、『日蓮聖人遺文全集講義』一八、『日蓮聖人御遺文講義』