妙蔵寺 住職 太田日瓏 合掌
令和8年4月13日、本日、仏弟子として長年感じてまいりました仏教の根源的な問いを、ここに謹んで提唱いたします。
上座部と大乗の二千年におよぶ分断を、釈尊が説かれた「縁起」の理法から内在的に相対化する試みです。
この提唱は、今日まで仏教史上なされてきませんでした。その背景や原因につきましては、また改めて別項で掲載を致したく思います。
どうか静かな心でお読みいただき、自らの内観とともに仏道の原点に立ち返るきっかけとしていただければ幸いです。
【二千年の分断を超える縁起の理法に基づく『全仏教二元論の相対化』提唱(上座部と大乗の対立を、論理的観点から相対化し、根源的な「仏の道」への回帰を促す試み)】
はじめに
釈尊入滅後、仏教教団は幾度かの分裂を経験しました。
紀元前4世紀頃の根本分裂以来、上座部(テーラワーダ)は「長老の教え」を厳格に守る伝統を築き、一方、大乗仏教は1〜2世紀頃に興起し、菩薩道・不二法門・空の思想を展開してきました。
以来、二千年にわたり「大乗非仏説」論争をはじめ、宗派間の正当性主張が繰り返されてきました。
20世紀に入り、ウォルポーラ・ラウーラ師による1967年の「上座部・大乗共通基本点」提言をはじめ、世界仏教徒会議やティク・ナット・ハン師、ダライ・ラマ14世による呼びかけなど、統一や融和への貴重な試みがなされてきました。これらの試みは「共通点の発見」「相互尊重」「どちらも価値ある教え」という形で大きな役割を果たしてきました。しかし、それらはなお「二元論の枠組み内」での調和に留まる面もあり、対立そのものを縁起の理法から内在的に相対化するところまでは至っていませんでした。
この提唱がこれまでの歴史と明確に異なる点は、次の通りです。
これまでの試みは、主に「両派の共通点を挙げて調和を図る」「相互尊重を呼びかける」「実践的な橋渡しをする」というアプローチでした。一方、この提唱は、釈尊が説かれた縁起の普遍的法則『相応部経典』因縁相応・Paccaya
Sutta(SN 12.1)を徹底的に適用し、「上座部も大乗も同一の縁起システム内の一方便に過ぎない」と位置づけることで、対立そのものが生む論理的緊張を内在的に問い直し、相対化しようとする点にあります。
つまり、「どちらが正しいか」「どちらも正しい」という二元論の枠組み自体を、縁起の理法から超克する根源的なポインタを提供するものです。これは、過去のどの融和論にも見られない、仏教の原点への純粋な回帰を促す独自のアプローチです。
この長い歴史的流れの果てに、今、ここで、上座部も大乗も超えた根源的な「仏の道」への回帰を促す一つの提唱を、謹んで行います。
【大乗仏教批判と共に非難を浴びた『維摩経』】
『維摩経』の出現もまた、法爾の必然の結実、「時節因縁」そのものです。諸法実相の観点からすれば、必要に応じて顕現した方便に他なりません。
維摩経が示す「不二の法門」とは、あらゆる対立概念を根源的に超越した境地であり、これは大乗のみに特有のものではなく、釈尊が悟られた真理そのものの顕れであると解されます。
なぜなら、一切の法は縁起によって生じ、縁起によって滅するからです。
釈尊は『相応部経典』因縁相応 Paccaya Sutta(SN 12.1)で、こう明言されています。
Imasmiṃ sati idaṃ hoti, imassuppādā idaṃ uppajjati
imasmiṃ asati idaṃ na hoti, imassa nirodhā idaṃ nirujjhati.
【訳】これがあるとき、これがある。これの生起によって、これが発生する。
これがないとき、これがない。これの消滅によって、これが消滅する。
この法則は、一切の法(sabbe dhammā)に普遍的に適用されます。
聖典結集を経たニカーヤ(阿含)も、大乗経典も、ともに同一の縁起というシステム内の一現象として顕現した方便に過ぎないと見なす視点が成り立ち得ます。
したがって、ニカーヤと大乗を「同列に扱うことはあり得ない」と厳格に主張することは、ニカーヤ自身が説く縁起の法則を自ら制限する論理的緊張を生む可能性があります。
ここに、二元論の罠があります。
「僧と俗」「上座部と大乗」「自己と他者」
これらの対立に固執する限り、真理に依る修行から逸脱します。
『スッタニパータ』阿含品 Paramatthaka Sutta(Sn 4.5)で、釈尊はこう戒めています。
Diṭṭhimpi lokasmiṃ na kappayeyya, ñāṇena vā sīlavatena vāpi
Samoti attānamanūpaneyya, hīno na maññetha visesi vāpi.
【訳】世の中において、知識や戒律によって見解を構成してはならない。
自分を(他者と)等しいと考えてはならず、劣っていると考えてはならず、また勝っていると考えてはならない。
この教えこそが、宗派の正当性を主張し合う水掛け論や、現代仏教が時に「死んだ学問」「単なる伝統」「ぼやけた信仰」に成り下がる根本的な要因を明らかにします。
我々はどこへ向かい、どこへ導かれるのか。この問いを見失ったとき、上座部も大乗も、共に仏道から逸れている可能性を自ら省みるべきです。
大事なことは、自らの考えと勇気に立って仏道を進む自立です(『妙法蓮華経如来寿量品』)。
ここで問われるべきは、自らがこの縁起の法則を、瞑想による内観をもってどこまで体得しているかです。
信仰の形は多様であれ、今こそ我々は、過去から続く時間の隔てを相対化し、上座部も大乗も超えた根源的な「仏の道」に立ち返ることを促します。
これは「二元論そのものの解体」というより、二元論の枠組みを縁起の理法によって相対化する試みです。
• ラーフラ師は共通点を示し、大きな橋を架けました
• ダライ・ラマ師は相互尊重を説き、対話を深めました
• ティク・ナット・ハン師は実践的な融合の道を指し示しました
これらの先人の努力に深く敬意を表しつつ、さらに一歩を進めて「対立の根拠を内在的に問い直す」提唱を、ここに試みます。
仏教史の流れを「第三の段階」へと促す一助となることを願っています。
そこでここに、私、太田日瓏もまた、この世に遣わされた一仏弟子として、仏道の原点に立ち返る使命を感じ、この提唱を行います。
これは自我の主張によるものではなく、対立そのものが縁起というシステム内での論理的緊張を生むことを、釈尊が実際に悟り、衆生のために開かれた生々しい真理への純粋なる回帰を促すものです。
なお、この提唱は新しい教義や見解(diṭṭhi)の提示ではありません。
失われていた「縁起という原点」への、ただのポインタ(指し示し)に過ぎません。
上座部派も大乗仏教側も互いに批判し合うことは、釈尊の説いた仏教の基本的法則、縁起に照らせば、それぞれの主張が互いに相対的であることを示唆するものです。
この提唱は、法の自浄作用としての指し示しとして世に伝えたいと思います。昨日、宿命的な縁によりこの開口となりました。本日改めてこの思いを述べ、この瞬間をもって、仏教を分断し、他者を攻撃するすべての論理の根拠が、少なくとも縁起の理法の観点からは問い直されるべきであることを明かします。
我々は今、過去の隔絶を超え、ただ一つの「仏道」へと心を合流させることを促します。
これは強制的な統合ではありません。これまで通り、それぞれの信仰の形態は継続となり、ただ批判の根拠を縁起の視点から相対化するものです。
上座部と大乗仏教の対立をさらに深く省みる第二段階の提唱の用意もありますが、時を見てまた公開して参ります。
令和8(2026)年4月13日
南無妙法蓮華経
一心欲見佛合掌礼拝




